水堀跡
水堀跡([八幡塚砦 遺構・復元物])
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水堀跡の口コミ情報
2022年04月29日 長森原
八幡塚砦(現・六郷神社)はかつては水堀で四方を囲まれており、砦のすぐ東側を中世期の東海道が通っている立地でした。
元和9年(1623)に神社西側に東海道が付け替えられた際、西側の水堀が一部埋められましたが、大部分の水堀はそのまま明治期まで残っていました(迅速測図で確認)。現在は残念ながら、水堀は全て道路等に変わっています。立地と地形からは、砦というより領主の居館か、東海道を扼する関所的な施設を思わせます。
八幡塚砦には、かつて武田信玄軍と地元の領主・行方氏が交戦したという伝承があるとされていますが、武田信玄軍が大田区に来襲した史実は無く、常々不思議に思っていました。調べてみるとその伝承の元となっているのは、軍記物語の「北条記」(小田原記)のようです。
「六郷に行方弾正居たりしが、己が屋敷の近所なる八幡に要害を構え、稲毛の田島横山、駒橋等を引率し、甲州勢を通さず、信玄は品川の宇多見石見守、鈴木等を追散し、六郷に出でられけれど、六郷の橋を焼落しければ、池上へ懸かりて、池上寺を追捕(ついぶ)す」(北条記)
「北条記」では信玄軍は品川から東海道を通り六郷で多摩川を渡って小田原に向かおうとしたところ、行方弾正が六郷の橋を焼き落としていた為、やむなく池上本門寺に向かったという事になっています。
六郷の橋とは江戸初期に東海道の多摩川渡河点・六郷の渡し場に架けられていた橋で、八幡塚砦の西南600mの所に在りました。ただ、戦国時代に六郷に前身の橋がすでに存在していたのかは判っていません。
しかし東海道や多摩川の渡しを舞台にした軍記物語は、江戸時代の人々にはイメージし易かったのでしょう。いつしかそれが史実として語り継がれるようになったのではないかと思われます。