小山田城
小山田城([小野路城 周辺城郭])
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小山田城の口コミ情報
2023年07月09日 RED副将軍
有力鎌倉御家人である小山田氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1171年に小山田有重により築城。小山田氏は、桓武平氏の系譜である秩父重弘の次男の秩父有重が小山田荘を領して小山田氏を称したのが始まりとされます。小山田有重は、1180年の源頼朝の挙兵当初は平家の家人で大番役として在京していましたが、後に畠山重忠と同じころに源頼朝に服属し鎌倉御家人となりました。小山田有重の長男が稲毛重成であり、執権の北条時政の娘を娶り有力御家人となりました。しかし、北条時政の謀略により畠山重忠の乱が起こると、無実の畠山重忠を讒言したとされ稲毛重成も誅殺され、小山田一族は離散し勢力を失いました。甲斐へと逃れた一族は武田氏の家臣として仕え、小山田信茂らを輩出しています。1333年の元弘の変の頃には、小山田城は鎌倉幕府の管理下にあり北条泰家が守備していました。分倍河原で幕府軍が敗退すると北条泰家は敗走。新田義貞の侍大将であった小山田高家は鎌倉に入り北条氏を滅亡に至らせたとされます。南北朝時代の後は、小山田庄には小山田上杉氏が入り、1476年の長尾景春の乱においては、太田道灌は小山田城を大改修し、長尾景春方の溝呂木城、小磯城、小沢城に対抗する拠点としました。戦国時代の小山田庄は、小田原北条氏の支配となりましたが1569年に武田信玄が甲相同盟を破棄すると武蔵国内に侵攻。北条氏は武田氏の備えとして小山田城を改修強化したとされます。その後の小山田城の動向は定かではありませんが1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において北条氏が滅亡すると廃城となったと思われます。
見所
大泉寺のある場所が居館跡で、北側にある馬蹄形の丘陵上に城が築かれていたとされます。主郭と二郭が並列し堀切や土塁が認められます。案内板も立ち、五百羅漢像が登城ルートに点在しています。城郭遺構としては薄めですが、都内で消失せずに残っていること自体が素晴らしいことだと思います。
行き方は、大泉寺を目標に設定。立入禁止ですが社務所で見学をしたい旨を申し出れば許可を頂けました。
2020年11月25日 いれぶん[⭕️雁雁]
昭和40年代の城趾書籍によると当時は門型の形状(上空から見て)なのですが、なんらかの事情で左手が紛失し山道が途切れています。ですが主郭部分は健在で御住職の許可が得られれば見学できます。その昔、無断で花火等の火気持込があり、関係者以外立入禁止なのだそうです。中はとてもよく整備されていて、無数に立ち並ぶ羅漢様が二の丸・本丸等に案内してくれます。町田市では必見の山城だと思います
2020年11月21日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
大泉寺参道より入いると、大泉寺会館横に駐車場があるので停めさせて頂きました!山門の左に土塁上の台地があり、大泉寺本堂の左に城址碑と「小山田高家公顕彰碑」が建てられている!
★歴史
承安元年(1171年)小山田有重によって築かれた。 小山田氏は桓武平氏で、秩父重弘の次男有重が小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったことに始まる。
有重の長男稲毛重成は同族の畠山重忠と争って、重忠を諌言した。この結果重忠は相模国二俣川で討死し、元久2年(1205年)この諌言が重成の虚言であったことが発覚して、重成も誅殺され小山田一族は離散した。
甲斐国都留郡の小山田氏は、この小山田重成の弟行重(一説に行平)の末裔といわれる。
城跡は、大泉寺の北側にある丘に築かれており、寺の西側から登れるように紐がぶら下げられているのだが、壇家以外は立入禁止の看板が掲げられており、立ち入ることができない。
追記
めぐら〜様から伝言で情報を頂戴しました、御住職にお願いしたら本堂に向かって右手からの登城路から、城郭部を見学させて頂けるとの事でした!