山内経之供養塔
山内経之供養塔([高幡城 碑・説明板])
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山内経之供養塔の口コミ情報
2024年11月02日 いれぶん[⭕️雁雁]
鎌倉幕府を滅亡させた元弘の乱(1331〜33)の後、中先代の乱(1335)、建武の乱(1336〜38)に続く、常陸合戦(1338〜43)の初期に討死する室町幕府方の地頭である山内経之は、合戦前から自身の最期まで克明に手紙を残してくれています。歴史に登場する事がない、小領主のいじましいまでの生活臭溢れる辛苦ぶりは身につまされるものですが、だからこそ南北朝時代の武将達の鼓動が生き生きと伝わってくるのです。
山内経之の文書や当時の社会情勢などは市政図書室(日野市役所1階)で領付されている「日野市史通史編(2上)」「史料集:高幡不動胎内文書編」で入手可能です。通販もあります。
山内経之供養塔と像内文書(重要文化財)
当山に南北朝期の貴重な像内文書を残した土渕郷(日野市日野本町及び日野市日野とその周辺地域)の小領主山内経之は、北朝方の高師冬の北畠親房攻め(常陸合戦)に参加し、下総国の駒城合戦で戦死した。
像内文書は、経之が下総へ向う途中やさまざまな合戦のさ中より留守家族や高幡山の僧しゃうしんなどに届けた書状が中心で、戦費調達の苦しさや所領経営の破綻・戦闘の実態・寺院との関係など中世武士の生の生活記録となっており、六十九枚の文書中五十枚は経之の筆であることが確認されている。
これらの文書は、経之の遺族や関係者が戦死した経之ゆかりの書状の背面に不動明王や大黒天の印仏をして、当時建武二年の大風の被害を受け修理中であった不動明王の頭部に納めて故人の冥福を祈ったものである。
文書の存在は昭和初年に確認されたものの鼠の被害等損耗が激しく解読不能と見られていたが、昭和六十年からの文化財綜合調査でその重要性が指摘され、その後日野市教育委員会の手で数年をかけて全容が解明され、全国に類例のない中世武士の貴重な文書として重要文化財に指定された。
文書を残した山内経之一族の消息はその後当地方から絶えており判然としないが、当山では此の度中世の九輪塔(中島久榮氏寄贈)を山内経之供養塔として山裾に移設し、その菩提を弔うと共に、経之の事績を末永く後世に伝えんとするものである。
平成二十五年四月二十六日
高幡山金剛寺現董 祐勝誌之
(案内看板全文)