兄弟塚(すってくりょう)
兄弟塚(すってくりょう)([二宮城 寺社・史跡])
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兄弟塚(すってくりょう)の口コミ情報
2024年03月07日 いれぶん[⭕️雁雁]
兄弟塚の伝説
今から凡そ六百八十年前、鎌倉に幕府がおかれたその頃、この地方に武蔵七党があり、その中の一党横山に菅生太郎経孝と云ふ武士がおり、三人の子供「有孝」「経久」「有孝」と云った。長男有孝は父の後を継いで菅生太郎有孝と名乗り、経久は分家として五日市宿の小倉に住み小倉次郎経久と云い、参男も分家して大貫馬之亮有経と云った。
或る時有孝は北条氏に召され鎌倉に行って、不在となった留守に福泉寺より田耕の為に乗馬を借りに来たが、主人が不在の為断ったが遇々弟経久が来たので、家来が話すと経久は軽く引受けてしまった。
数日後帰ってきた有孝は馬の様子がおかしいので、家来に尋ねると田耕に貸した事がわかり、愛馬を農耕馬に使用したと経久と口論となり、兄弟喧嘩となり家来達がとめても双方ともきき込れず、有孝は「経久お前は俺を侮辱したな」と大刀を抜き放ってしまった。弟も負けてはいません、二人は激しく戦い乍ら鯉川淵の不動尊から「すめり坂」にかかったその時、弟の打下した大刀の先が兄有孝の左耳から首筋深く切り込まれ、其の場に倒れ息絶えた。兄思いの弟経久は「兄を殺してしまっては生甲斐なし」と、この大刀で自分の喉を突いて兄の後を追ったのである。
報を受けた菅生家では寺僧と相談の上、兄弟の倒れた「すめり坂」の上の道ばたにある福泉寺の山林に、剃髪せず枕を並べ葬ったのがこの兄弟塚であります。
当時は昼間でも暗い森林でここを通ると、剃ってくれ剃ってくれと云ふ悲壮声が聞こえたと云う。
又一説にはこの所を南刀地ホトトギスの墓と云ってホトトギスが「おとのどつつきつちよ」と鳴いたとも云はれている。
平成二十四年六月吉日 福泉寺
(解説看板全文)