葛浜氏館
葛浜氏館([羽生城 周辺城郭])
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葛浜氏館の口コミ情報
2026年09月23日 マグロ常陸介祐平
秀郷流の大河戸下総権守重行(行方)の子葛浜四郎行平の館とされています。下野の守護小山氏とは近い親戚となります。
吾妻鏡によると、父の重行が平家に仕えていた罪で伊豆蛭ヶ小島に流罪となり、行平の兄清久次郎秀行が三浦義明の娘を娶っていたことから、行平ら4兄弟は三浦義澄に預けられていたようです。父の重行がたまたま許されて鎌倉に戻されることになるも、途中で病気になり亡くなってしまい、行平ら4兄弟も頼朝に嫌われていましたが、治承5年(1181年)に許されています。頼朝が4兄弟を御簾から見ると、その面構えが皆勇士の相を備えており気に入ったとしています。また、建長2年(1250年)の京都御所の閑院殿を建築する際の請負人として「葛浜左衛門尉の相続人」が見られますが、名前の載る御家人250人の内下から3番目で、割り当ては裏の築地塀用の柱1本となっており、小身の武士だったようです(ちなみに最末尾は知名度の高い佐野基綱の相続人で同じく柱1本)。左衛門尉は行方の子の行高と思われます。
以降の葛浜氏の同行は不明です。現代において「葛浜」の姓を名乗る人はいないようで、読み方も「クズハマ」か「カツラハマ」か分からなくなっているようです。館もいつまで使用されたのか、分かりません。
風土記稿の神戸村の条に「千眼寺は万蔵院と号し、古は神戸三郎が妻薙染して如意坊といひ三郎追福の為に造立せし寺なりと口碑に残れり。」とあり、この神戸三郎は葛浜四郎行平と同一人物とされているようです。現在の千眼寺は伊勢崎線の東側にありますが、かつては西側にあり、その場所が館跡とされているようです。諏訪神社の小さな祠の北東の座敷林辺りが該当地となるようですが、遺構は残っていないようです。鎌倉時代の館であり、葛浜四郎=神戸三郎というのも確実とは思えず、伝承地の域を出ないように感じられました。









