勝呂氏館
勝呂氏館([大堀山城 周辺城郭])
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勝呂氏館の口コミ情報
2026年09月07日 マグロ常陸介祐平
勝呂氏の館となります。現在の大智寺にあった勝呂館から、この地に移ったとされています。新編武蔵風土記稿に長文で「勝呂豊前守屋舗跡」として記載されています。勝呂氏の先祖は吾妻鏡にも見られる武蔵七党(村山党)の須黒兵衛太郎(恒高)で、戦国期の当主豊前守は北条氏に属しており、北条氏の没落後は久留里に行って里見氏に仕え、里見氏が断絶すると浪人し、しばらくすると亡くなったとしています。勝呂豊前守は北条氏に仕えたとされますが、石井村は小田原衆所領役帳によると豹徳軒と太田大膳亮の領地となっており、どちらかの被官だったのでしょうか。
近年まで遺構として土塁が残っていたようですが、現在は失われています。館に隣接して14世紀中頃に創建された宗福寺には、文和5年(1356年)の銘がある巨大な板碑が見られます。
500m程東には、勝呂豊前守の先祖とされる須黒太郎恒高が建保元年(1213年)に社殿を再営したと伝わる勝呂神社が鎮座しています。社殿は円墳上にあり、撫でると勝運をもたらす霊石があります。もちろん撫でてきました。
2026年07月23日 東堤北星
宗福寺に隣接して存在していたとされる勝呂氏の居館です。勝呂氏は石井大智寺にあった勝呂館からこちらへ居館を移したそうです。
境内にある板石塔婆(坂戸市指定考古資料)の案内板には、宗福寺が勝氏(勝呂氏)の居館に隣接して建立されたと記載されています。昔の地図や発掘調査より、宗福寺の北側に隣接していたと考えられます。また、この石碑及び案内板から勝呂氏館は1354年の時点で既に存在していたということがわかります。
城主として名が挙げられる人物に勝呂豊前守がいます。豊前守は北条氏に従えていましたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると、豊前守は里見氏(久留里城)へ仕えることになり、上総へと移ったそうです。当館もおそらくは豊前守が上総へ移った際に廃城となったと考えられますが、勝呂氏分家や子孫がのこった可能性も0ではないので何ともいえません。最低でも1590年時点で館は存在していたそうです。
発掘調査では土塁や空堀、水堀の遺構が発見されたそうです。宗福寺北側の住宅地となっている場所に土塁が存在したそうですが、現在は完全に消滅しています。近くを流れる用水路は堀跡に見えなくもないですが、なんともいえないです。









