横田氏陣屋
横田氏陣屋([大堀山城 周辺城郭])
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横田氏陣屋の口コミ情報
2025年11月08日 河堤北星
現在は旗本横田家墓所、休臺寺となってる場所にあると比定される陣屋です。陣主とされる横田氏は武田二十四将の一人である猛将・横田高松の末裔の一族です。他にも大坂夏の陣で徳川家康を安全な場所に逃がしたとする逸話が残る横田尹松などがいます。戦国の世が終わると、徳川幕府の旗本となり、旗本として最大である9500石の土地を所有していました。
さて、本題の横田氏陣屋についてに話題を移りましょう。現在、陣屋跡と比定される休臺寺について『新編武蔵風土記稿』によると、日慶という僧侶が永柳山妙慶寺として開山、横田次郎兵衛が中興開基した寺です。横田次郎兵衛という人物は延寶年中に寺を中興してるとされています。延寶(延宝)は1673〜1681年を指し、旗本横田氏では3代・横田由松の時代です。この横田次郎兵衛なる人物が誰なのかははっきりわかりません。推察すると、現在寺の前には横田氏の墓所があり、そこに横田準松の墓があるので、この一帯は分家の十郎兵衛家の所有だったのでしょうか?「次郎兵衛」という名から推測すると二男と考えられるため、当てはまるのは十郎兵衛家第3代目当主を1684年まで務めた横田忠郎(林忠隆の次男で2代能之の養子)あたりでしょうか?また、没年が不明なためわかりませんが、2代横田能之も興津宗能の二男です。念の為、もしかしたらどちらでもないまた別の横田一族の方なのかもしれません。
ちなみに、先ほど登場した「横田準松」ですが、彼は分家出身ながら旗本横田氏の5代当主を務めた人物です(横田栄松の三男で4代横田清松の養子)。御側御用取次に任ぜられ、横田氏の石高を3000石増加させ計9500石と、旗本最大にした人物です。将軍側近として権力を持った為、松平定信を擁立しようとしていた勢力から失脚を画策されていました。そのようなさなかに発生した天明の打ちこわしの際、正しい情報を伝えなかったとして横田準松は失脚、これにより松平定信の老中就任が実現しました。
話がだいぶそれましたね…文章はやはり難しいです(笑)。横田氏陣屋についてですね。跡地にあるとされる休臺寺については上のとおりです。ただ、ここまで書いてきて申し訳ないのですが、横田氏がここに陣を建てたのかに関する文献はほぼないです。一部の個人サイトなどで言及がありますが、やはり出典などは明確ではないみたいです。しかし、寺の場所は周囲より小高くなっており、西には小川が流れているため、布陣する場所としては結構いい場所なのではないでしょうか?周囲には土塁っぽい地形もありました(ただ、宅地開発の盛土の可能性も大)。いずれにせよ、横田氏の墓所がある以上、この地が横田氏にとって大事な場所だったことは事実でしょう。城跡として見ると微妙な物件ですが、休臺寺は整備され、綺麗な寺です。本堂だけでなくしっかりとした鐘撞堂なども見どころです。おすすめの時間帯は灯籠に明かりがつく晴れの夕暮れ時ですね。横田氏墓所は寺の門をでたところにある駐車場の一角にあります。往年の有力旗本であった横田準松にぜひ挨拶しにいってみてはいかがでしょうか。
城郭基本情報
名称(よみ) 横田氏陣屋(よこた)
通称・別名 休臺寺館、片柳陣屋
所在地 埼玉県坂戸市片柳2346
問い合わせ 坂戸市教育委員会
分類・構造 平山城?
天守構造 なし
築城主 横田氏
築城年 不明
主な城主 横田準松
廃城年 不明
遺構 土塁?、墓所
指定文化財 なし
再建建造物 休臺寺
跡地 休臺寺、宅地、公園
アクセス 北坂戸駅より徒歩15分
おすすめ度 ★★★☆☆
見学所要時間 15分
服装目安 軽め
攻略情報
裏手の駐車場のフェンスには小さい入り口があります。一見すると私有地みたいですが、砂利の駐車場への入り口ですので、駅から徒歩で攻城する際には近道です。









