恒岡氏館
            
          
恒岡氏館([大堀山城 周辺城郭])
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恒岡氏館の口コミ情報
            2025年10月25日 マグロ常陸介祐平
              
 
              
 
              
 
              
 
              
 
              
 
              
 
              
              
            飯盛神社付近が、館跡とされます。神社の石碑によると、康安年間(1361~62年)、片柳長門入道の草蒼の地としており、産土神として飯盛大明神を祀ったとしています。片柳(片楊)長門入道は実在の人で、貞治3年(1364年)に押領した鎌倉大慈寺内釈迦堂領を足利基氏の御教書を受けた成田下総守泰直と玉井蔵人入道覚道により退けられたとの記録があるようです。
戦国期になると、岩槻太田氏の被官の恒岡入道大林軒道會日勢が鎌倉妙本寺住持の本行院日慶と飯盛神社の社殿を建立したとしています。風土記稿では恒岡大林軒を松山城主上田氏の家臣としており、江戸時代の軍記「天正庚寅松山合戦記」にも大林軒の名が見られるようです。岩槻城主太田氏資の家臣恒岡資宗は、この館から東に5km程の比企郡井草郷(川島町)の牛島氏に、入間川の堤防築造を命じる連署状を発給しているようですので、この地区と全く関わりがなかったわけではなさそうですが、埼玉苗字辞典では、大林軒と岩槻太田氏の被官恒岡氏との血縁を否定しています。太田氏の被官恒岡氏は、多田源氏太田氏の庶流で、江戸時代になると550石取りの旗本になっています。
飯盛神社付近が館跡とされてはいますが、風土記稿には居館に関する記述はなく、神社は微高地で背後に段差も見られますが、遺構という感じではありません。
          


              
              






