越畑城
越畑城([杉山城 周辺城郭])
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越畑城の口コミ情報
2025年05月14日 マグロ常陸介祐平
「おっぱたじょう」と読みます。
新編武蔵風土記稿に壘蹟として記載され、いつの頃誰が住んでいたか詳ではなく、或は庄主水という人の居蹟とも言われるがその年代も定かではないとしています(児玉党の子孫だろうかとし、杉山城にも言及)。城趾に建つ石碑では、児玉党から出た一族の荘山城守秀俊が上杉憲実に従い分倍河原の戦いの軍功でこの地を賜り築城し、子孫は山内上杉氏、北条氏に属し、小田原の役後に子孫は練馬区大泉(橋戸)や戸田市新曽に帰農したとしています(先人様がわかりやすく全文を口コミされています)。埼玉苗字辞典によると、松山城に詰めていた庄氏や杉山氏は戸田市新曽の荘氏としているので、根も葉もないということではないのかもしれません。
嵐山町の解説では、築城の年代や城主などのはっきりした記録は残されていませんが、室町時代頃にこの地方が多くの戦乱に巻き込まれたとき、鎌倉街道を見下ろして敵の動きを監視する砦として設けられたものと考えられるとしています。お城は山の頂に築かれた小規模なもので、しっかりした堀や土塁などの防御施設のない、簡単な浅い堀で仕切られた三つの郭で構成されていたようです。発掘調査では、本郭から径が3m、深さ69cmの土坑に籾殻と真竹の炭化物が大量に発見されており、狼煙を焚いた施設と考えられているようです。
お城は関越道により大半が消失しています。お城には関越道をわたる橋から入りますが、主郭は橋を渡って右側(北側)の歩道の一部のようですが認識できず、左側(南側)の愛宕神社が2の郭として残っていました。とはいえ削平はあまく、周囲も切岸加工されている風もなく、城郭的な雰囲気は感じられません。神社後方西側の下ったところには腰郭状の削平地がありますが、遺構でしょうか。
お城の石碑は関越道の東側に建ちますが、先人様の位置登録のお陰ですぐにわかりました。
2020年09月08日 ️…
城主子孫が建立した越畑城石碑には、裏面に『越畑城址の記』が刻まれていますので、お忘れなくチェックしてください。
越畑城石碑より(一部現代文に修正)
越畑城址の記
この城は、荘山城守秀俊が築いた城です。西は鎌倉街道に臨み、北は高見城を経て鉢形城、深谷城に達し、南は菅谷館を過ぎ、松山城、川越城に至っています。城のある場所は高峻にして険阻、空堀、塁址が歴々として現存し、実に北武蔵の要害といえます。
荘氏は武蔵七党児玉氏から出た一族で、庄權守弘高、庄太郎家長などは源義朝、頼朝に仕え功名があり、家長五代の孫・四郎泰家、五郎為久、泰家の子・太郎弘長などは、建武中興の際、新田義貞に従い勲功がありましたが、南朝に風は吹きませんでしたので、新座郡橋戸に退いて郷士となりました。
時は戦国の世に及び、弘長から三代の末裔・秀俊は山城守を名乗り、永享10年(1438年)には管領上杉憲実に従い、武蔵野国・分倍河原合戦での軍功により領地を比企郡内に賜り、この地に城を築いて居住しました。子の左近将監秀政は越畑の南・杉山の地に支城を築き、その城址は今なお存在しています。
その後、秀光、弘忠等がこの地を相続し、山内上杉氏、後北条氏に属し、数多の戦場を疾駆し、行秀の代に至って式部少輔と称し、後北条氏の家宰となりました。天正18年(1590年)の小田原攻めの後、太平の世が及んで荘氏の子孫は橋戸及び足立郡新曽に居住し土地を開墾し、祖先の祭祀断たず
今、荘家系譜の編纂を志し、当所の青木義夫氏の後援により城址を踏査し、この記を作りました。