伝・足立遠元館
伝・足立遠元館([加納城 周辺城郭])
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伝・足立遠元館の口コミ情報
2026年01月12日 マグロ常陸介祐平
足立遠元の館の4つある伝承地のひとつで、新編武蔵風土記稿の桶川宿の項で、旧蹟 屋敷蹟として取り上げられています。このる伝承地の内2ヶ所が桶川市内で、三ツ木城(登録城)と諏訪雷電神社付近、残る1ヶ所はさいたま市西区植田谷本内となっています。
足立遠元は、藤原北家の魚名流とも勧修寺流とされ、父の藤原遠兼は近衛府の舎人から武蔵国府の役人として下向、豊島康家の娘と結婚し生まれたのが遠元です。遠元は、豊島氏を通して足立郡司となり、足立を姓としています。
平治の乱では源義朝につき、治承・寿永の乱ではいち早く頼朝につき、東国の武士としては最初に足立郡の本領を安堵されていますいます。頼朝の死後、十三人の合議制のひとりとなったことは、大河ドラマを見ていたら記憶に新しいと思います。遠元の死後、足立郡司は北条一門に移り、足立郡に土着した足立氏は支配下となったと推測されるようです。霜月騒動で安達泰盛についた嫡系の曾孫足立左衛門尉直元は自害し、武蔵における嫡流は途絶えたようです。足立郡内には支流が土着し、河田谷(桶川市川田谷)、淵江田(足立区淵江)、安須吉(上尾市畔吉)、平柳(川口市)が見られるようです。また、遠元の孫遠政は丹波佐治庄の地頭となり戦国期まで継続、信長の丹波攻めにより居城の山垣城は、明智光秀らにより落城しています。
風土記稿の書かれた江戸時代後期には、武器や陶器が掘り出された伝承はあるものの、林となり文字のない石の祠がある状態だったようで、遺構は残っていません。昭和の中頃まであったとされる、文化年間に桶川宿本陣の府川義重が再建した石祠も無くなってしまったようです。現在、総合福祉センターの敷地内に立派な石碑と小さな説明板があるのみとなっていますが、旧跡として桶川市の文化財に指定されています。
2022年11月06日 Marky武蔵守
鎌倉殿の13人の1人である足立遠元の館の伝承地の1つです。桶川市総合福祉センターの入口の右脇に石碑があります。かつて堀が残っていたようですが、宅地化で消滅したそうです。









