中里方形館
中里方形館([滝の城 周辺城郭])
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中里方形館の口コミ情報
2025年12月21日 マグロ常陸介祐平
発掘により中世の方形土塁が確認されており、鎧・太刀金具・弓が出土しています。正式な遺跡名は「清瀬市No,47遺跡」で種別は「城館?」と、自信の無さそうな区分になっています。城跡には、太い堀のような構造が見られますが、遺構ではないようです(写真1~3枚目)。また、西側にも空堀状の溝(写真4枚目)が見られ、それらしさを感じさせます。
風土記稿によると、中里村は古より旗本武蔵氏の知行とされているとしています。武蔵氏は、藤原南家工藤氏の系統で氏井姓から武蔵姓に改められたとされ、戦国期に兄の孫左衛門吉正は織田信長に仕え、弟の秀貞は徳川家康に仕えて武田氏との戦で戦功をたて入間郡に采地を賜った際に中里村も知行したのではないかと風土記稿では推測しています。後に兄の吉正も家康に仕えて、家康の関東入国時に武蔵都築郡と高麗郡に采地250石を賜り、関ヶ原の合戦で活躍、吉正の子の吉勝も大阪の陣で首を得る活躍をしています。吉勝の子の吉次は大番に列し、采地の都築郡中里村の東光寺に葬られたと寛政譜にありますが、実際には都築郡に中里村は存在せず、中里方形館から南西に300m程の東光院(写真5,6枚目)にお墓(写真7枚目,石寿の父義陳が建てた供養塔ですが)があります。風土記稿の書かれた江戸時代後期の時点でこの地は兄吉正の系統の知行地のようですので、中里方形館が該当するのかは別として、家康の関東入国時に武蔵氏がこの付近に陣屋を構えた可能性は高いように思われます。清瀬市郷土資料館の歴史年表には武蔵氏の活躍が見られますが、陣屋に関しての記載はありません。
江戸時代後期の武蔵氏当主の孫左衛門吉恵は、号を石寿といい、貝類や昆虫の研究で名を知られているようです。









