北浅羽館
北浅羽館([高坂氏館 周辺城郭])
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北浅羽館の口コミ情報
2026年06月08日 マグロ常陸介祐平
満福寺が該当地となります。児玉党の浅羽氏の館とされます。浅羽氏は小代氏や越生氏と同族で、小野見氏や粟生田氏は分家となります。
風土記稿の満福寺の項によると、「初代の浅羽小大夫行成は、源頼朝の時に功があり、両浅羽・長岡・小野見・粟生田の地を賜り、頼朝の命で鶴岡八幡を勧請、行成の三男の五郎兵衛行長は頼朝に供奉して奥州に下り戦功のあった人で、満福寺を再建。満福寺は建武年間になると足利尊氏から寄進を受ける。その後永享年間(1429~1441年)になると当所の主の浅羽下野守と同左衛門大夫等が戦死してその子孫は久しく流浪してさまよった後に、永禄7年(1564年)に当所に来てしばらく居住するも子細があって上野国(ママ)佐野庄の免鳥城に住んだ。大旦越を失い当寺も次第に衰え、天正18年(1590年)の小田原の陣の時には敵軍が乱入して堂宇を破壊し寺は空地となり草庵一宇と小社一宇が残った。その後北南両浅羽の浅羽氏の子孫もいよいよ衰えて氏神菩提寺をも知らなくなったという。」とあります。
境内には埼玉県の文化財に指定された徳治2年(1307年)の板碑があります。内容は浅羽小大夫有道行成とその子孫を弔う為に7代の末孫比丘慧見幹縁が建てたものです。風土記稿の書かれた江戸時代後期まで用水路の橋に使用されていたようですが、風化も僅かで、文字は今でも読み取れる状態です。
明確な遺構は残っていませんが、背後の用水や微高地の裏の畑は、なんとなくそれらしく感じられます。









