大家城
大家城([田波目城 周辺城郭])
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大家城の口コミ情報
2025年11月20日 マグロ常陸介祐平
東武越生線西大家駅前の国渭地祇神社(森戸神社)が城址となります。
お城は台地の縁にあり、神社の西側には土塁状の土盛り、台地の下には空堀状の溝が確認出来ます。神社から台地下までの高低差は目測で7~8m程はあるように見えますが、傾斜は緩やかで、切岸加工を施している感じではありません。
お城としての来歴や城主などは不明です。森戸の地は小田原衆所領役帳に御馬廻衆の久米玄蕃35貫(他に小田原や横浜にも所領有り)となっていますが、風土記稿では隣村の四日市場村の小名(小字)玄蕃分は久米玄蕃が居住していたから付けられた地名ではないかとしており、このお城とは、関係ないように思われます。
城址に鎮座する国渭地祇(くにいちぎ)神社は、社記によると延暦年間に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を再営し、後に奥州の藤原秀衡が再建したとされ、風土記稿の書かれた江戸時代後期には熊野社と呼ばていました。神社の標柱や扁額には延喜式内とありますが、比定される神社は、所沢の北野天神社です。神社の隣には江戸時代まで熊野社の別当寺で本山修験山本坊配下の大徳院が存在いており、跡地の電気屋さんのお庭には、風土記稿にも記述がある観応2年(1351年)の板碑が見られます。板碑は僧侶の逆修(生前供養)のもので、武士に関するものではありません。あとから調べてみると、城址に関係する神社もお寺(廃寺)も歴史が古く、本当にお城なのかは微妙に思えました。
因みに大徳院の跡地の電気屋さんは「ダイトク電器」です。修験僧?(修験者)は苗字を名乗っていたようで、江戸時代には大徳(平姓)を苗字として使用しており、周応・周乗・伝周など「周」の文字を通字としていたことが確認できます。高麗神社の高麗氏系図には、天文22年(1553年)に亡くなった修験高麗覚与の娘が、森戸の平周頼に嫁いでいるので、熊野社を含む大徳院が半僧半士として城郭構造を有していたのかもしれません(勝手な想像です)。









