鶉古城
鶉古城([中野城 周辺城郭])
中野城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「鶉古城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
鶉古城の口コミ情報
2025年01月29日 マグロ常陸介祐平
鶉古城は、多々良沼に突き出た半島状の荒間崎と呼ばれる台地を利用して築かれたお城で、元弘元年(1333年)に北条高時の弟慧性と荒間朝春がこの地に逃れ築城したと伝わるようです。その後、応永年間(1394~1428年)には多々良忠致の居城となり、戦国期には館林城主赤井氏の家臣小曽根玄番允正義が城主でしたが、天正18年(1590年)館林城落城に伴い廃城になっています(写真7枚目)。小曽根氏は付近に帰農したようで、小曽根の名字は周辺に見られます。
城址は、「多々良沼公園」として整備されており、駐車場に面して空堀と虎口の開口する土塁が見られます(写真2,3,5,6枚目)。また、半島の北側には水堀(写真4枚目)、そこに接続する形で半島のやや東寄りに半島を分断していたと思われる狭い水堀(写真1枚目)が確認出来ます。
お城の東端に鎮座する浮島弁財天は、江ノ島の弁財天が慧性の夢枕に立ち、「北条家の再興を図るべし」とのお告げにより勧請されたもので、裏側には南北朝のものと推測される宝篋印塔の残欠(写真8枚目)が見られます。
多々良沼は白鳥の飛来地で、今の時期は大量の白鳥を見ることが出来ます。休日に訪れましたが、大勢の観光客で賑わっていました。
2024年05月05日 見城
本日5/5は鶉古城祭りが開催され、パンフレットによれば、鶉古城で刀剣が作られていた可能性があると、以下の通り記載がありました。
刀剣は、現在の多々良沼公園内にあった「鶉古城」内の通称「天狗屋敷」で作られていたとされます。多々良沼では、これまで金糞と呼ばれる鉄滓(製鉄の不純物やかす)や、たたら製鉄の炉壁が確認されています。今のところ、刀が作られた時期よりも古い奈良・平安時代の製鉄であることがわかっています。
多々良沼周辺は、砂鉄や木炭などの原材料が付近から採取可能であるので古代に製鉄が行われていたと考えられます。このことからも、江戸時代に玉鋼の製鉄が行われたかも知れません。とあります。
鶉古城祭りの幟旗には、「鋼に刻まれし天下の葵」徳川幕府御用鍛冶の地・上州邑楽とあり、いにしえのロマンを感じさせてくれます。
2023年02月05日 見城
鶉新田字古城にある多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部にある城で、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、その弟の僧慧性(えしょう)、荒間朝春らとともに逃れて築城したと案内板にあります。その後多々良四郎忠致の居城となり、戦国時代は小曽根政義が城主となって小田原北条氏の来攻に備え守備したと記されています。
現在は、浮島弁財天からハクチョウが観察でき、この日はコウノトリも姿を現して野鳥観察を楽しむ人たちの注目を浴びていました。
・多々良沼公園入口の土塁を上る階段
・鶉古城内 奥は土塁
・浮島弁財天
・多々良沼公園 浮島から
・芝公園となっている曲輪
2021年12月12日 見城
冬鳥が飛来する多々良沼の西岸から半島部に築かれた鶉(うずら)古城は、西側を南北に貫く半島を守備する土塁と空堀が残る。
現在は、多々良沼公園で、白鳥や様々な鳥が見られ、多々良沼の半島の突端の浮島には弁財天を祭る神社が建立されている。広々とした周囲5㎞の沼は、往時の古城も映していたと想像する。
・沼に浮かぶ鶉古城
・城外から西側の土塁と空堀
・土塁上から右手は250m続く空堀
・城内から西側の土塁
2020年08月09日 けらりんば甲斐守
多々良沼に突き出た半島状の地形を区切る一本の土塁が残っています。