毒島城
毒島城([赤堀城 周辺城郭])
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毒島城の口コミ情報
2025年11月03日 マグロ常陸介祐平
毒島城と書いて「ブスジマジョウ」と読みます。伊勢崎市赤堀歴史民俗博物館のパンフレットには、天正年間に牧弾正が在城したことがわかっていると書かれていますが、白井長尾氏の家臣で、3km程西にある大室城の城代牧弾正と同一人物と思われます。
お城は、周囲を湿地(沼)に囲まれた東西約150mの円錐形の独立した台地で、主郭(写真5枚目)を全周腰郭(写真3,4枚目)が囲み、南に1箇所虎口(写真2枚目)があります。周囲は切岸加工されていますが(写真6,7枚目)、土塁などは見られず、今残る遺構は、シンプルで、説明板には攻撃性は低く出城として機能していたと推測されると書かれています。お城の周りは1周しましたが、郭内は畑になっているため主郭の入口付近を見て、退散しました。
毒島城には、文政年間に書かれたとされる「蛇体合戦記」という書物に伝説を伝えています。鎌倉時代のはじめ、毒島城は青木入道が居城しており、近隣赤石郷の三浦河内守賢庭(謙庭)と境界争いで争っていました。三浦勢が城を攻めた際に青木入道は部下に命じて石臼で毒を作らせ、沼に流して敵を防ごうとすると、沼から大蛇が現れ火炎を吹き、三浦勢三千の兵は全滅します。三浦勢はさらに三千の兵で、土手を切り崩しで沼の水を抜き、民家の雨戸を並べて場内に攻め込むと、すでに青木入道以下城兵はことごとく死んでいたとの内容です(現地の説明板とは内容が異なります、写真1枚目)。三浦入道の若君は、落城の前の晩に城を落ち延び、桐生広沢に隠れたとされ、広沢地区の毒島氏は、子孫とされるようです。毒作りに使用された石臼は、赤堀歴史民俗博物館の玄関脇に展示されています(写真8枚目)。
2021年08月04日 見城
赤城南麓の東西150mの楕円形をした出城。豊かな田園に囲まれた丘陵で近くには赤堀茶臼山古墳があり、こちらも含め遠見台として機能していたと想像しました。
・南側の虎口方向を見た遠景
・北東の土塁
・北の土塁
・北側の突き出した土塁
・腰郭から見た北西側
・本丸 右手奥は虎口
・虎口から赤堀茶臼山古墳を望む









