悪源太義平の墓
悪源太義平の墓([三ツ木城 寺社・史跡])
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悪源太義平の墓の口コミ情報
2025年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、城めぐ的には丹波の赤鬼、赤井悪右衛門直正なんかが「悪」て称される代表格だと思うんだけど、この場合の「悪」はバンクロブするよな犯罪者の事じゃなくて、勇猛だとか猛々しいていう意味で付けられている(中世の「悪党」も本来は同じ意だ。)。そんな「悪」を冠する人物の墓所が今回の口コミ、書くのは虫も殺せない天使の様な美少年なんだけどね。
悪源太義平の墓は三ツ木城の南東約1.5km、利根川北岸(左岸)、早川東岸(左岸)、義平山清泉寺の境内、標高約38mの河岸段丘台地上平場に建つ墓石です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「義平山清泉寺」を目標に設定して下さい。車は門前に捨てられる。神社仏閣訪問時の停め方としては大胆だが、たとえ見られたとしても「あらあら…」で済んでしまう筈…理由はお寺さんが既に無住、破れ寺に近い状態だからだ。
まず、悪源太義平て誰なんだよ…て話なんだけど、平安時代末期に東国へ下向した朝臣、源義朝の庶長子、義平の事なんすわ。ここまで書けばもう気付いたかな。そうなんす、義平はあの源頼朝の異母兄に当たる人物なのれす。
兎に角、脳筋な人物だ。圧倒的に強ぇえ。義平の生涯は僅かに二十年だったけど、強烈なインパクトを残したと言ってよい。その名を轟かせたのが、久寿二年(西暦1155年)に行われた同族争い、「大蔵合戦」だ。実父、義朝が対立していた、同名の異母弟、源義賢の館(アプリの登録城、大蔵館の事である。)を急に襲い、義賢とその舅、秩父重隆を討ち取り武名は天下に鳴り響いた。悪源太(鎌倉悪源太とも。)と呼ばれるようになるのはこの合戦の後の事である。ちなみにかずぽんの推し武将、木曽義仲の実父が義賢なのさ。この事件がなければ木曽に匿れる事もなかったろう。
「平治の乱」を書いた軍記物、「平治物語」ではスター級の扱いである。内裏の諸門の一つである待賢門を奪われた義朝は、義平にこれを追い返すよう命じ、これに応えて同名は坂東武者十七騎を引率して平重盛勢、五百騎の中に殴り込み!基本的に脳筋の人には彼我の人数の差なんて関係無い。暴れられればそれでよいのだ。そして何とか出来るとさえ思っているポジティブ思考!フィジカルの強い人間がなんだかんだで営業で勝ちを収めるのと同じ感覚だ。全ての大脳皮質を筋肉に置き変えよう!筋肉こそが全てなのだっ!みんなも昼休みの時間に1万回は腕立て伏せをしよう!
義平は重盛と組み打ちしようと、内裏の左近の桜、右近の橘の間を七、八度も追い回す。重盛は新手を以て再び門内に押し出すが、脳筋にはそんなの一切関係無い。逆に勇みに勇んで嫡男同士の決着を声高に求める始末、重盛が「この人、ちょと無理…」て言ったかどうか知らんけど、遂には門内から敗走!坂東武者はこれ等を追って平氏勢を散々に討ち破る…みんなも100kgの負荷を背負ってスクワットに死ぬ気で励め!止め時は立てなくなってから考えればよい。
一方、都芳門で戦っていた実父の義朝は、平氏勢を深追いし内応者を出す等して内裏は同勢の占拠する所となってしまう。退路を失った義朝は人数を極端に減らしながらも六波羅へ攻め寄せる…義平はこの際に御味方の源頼政が人数を留めて傍観しているのを見咎めると後先考えずに殴り込み!が〜んっ!正に脳筋の面目躍如、ムカついたら秒で反応、即座に行動に移してしまう悲しき性なのだ。結果として頼政は当たり前の如く平氏方に…みんなも腹筋を鍛えよう!人体構造上はとても無理な6パックを超えるのだっ!
墓石の現況は…元々がただの石の塊なんだろうか。文字が刻まれていなかったらそこら辺の庭石と変わらない。刻まれた文字も摩耗が少な過ぎるような…新田荘歴史資料館の学芸員さんに真偽を尋ねても謎だった。ちなみに六条河原で斬首された義平の首を該地に埋葬したのは、同名の妻、新田義重の娘、祥寿姫と伝わるが、この姫、頼朝が懸想してラブレターを送った事でも知られる。きっと武士は未亡人が好きなんだろう。
源氏て頼朝の武家の棟梁のイメージが強いと思うんだけど、おいらが抱く源氏のイメージは、為朝、義平、義仲、義経の持つそれだ。何れもチート級の武士なんだけど、どことなく短慮で軽はずみな所があり政治的に未熟、強ぇえんだけどそれが故に身を滅ぼしてしまうていう…でもこんな輩がみんな大好きでしょ?日本人のDNAに深く刻み込まれた判官贔屓てやつだ。
※「大蔵合戦」〜生年が正しければ義平が十五歳の時である。やんちゃだったんだろう。
※「平治物語」〜合戦の描写は殆どが脚色されている。但し、義平の戦いぶりが人々の印象に残ったのは確かなようだ。
※嫡男同士の決着〜平清盛の嫡男が重盛である。同時代の人達の評価は極めて好意的だ。









