木部北城
木部北城([倉賀野城 周辺城郭])
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木部北城の口コミ情報
2026年07月08日 マグロ常陸介祐平
木部城から北に約1km、玄頂寺が該当地となります。また、北側を流れる烏川の対岸の倉賀野城も1km程の距離となります。お城に関する当時の記録は残っていないようですが、木部氏の木部城の支城と考えられているようです。
お寺には、南北朝期の康永2年(1343年)に建てられた五輪塔があります。群馬県最古の五輪塔で、県の文化財に指定されています。有力な武士階級のものと思われますが、石見国木部荘から移ったとされる木部氏の先祖のものでしょうか。
遺構としては、参道の西側に土塁が一条残っています。参道側には水堀状の池の痕跡が見られ、裏側は空堀の痕跡のようにやや窪んで見えます。参道に並行していることから、一般的に見られる参道に付属する土盛りの可能性も否定できない感じです。
玄頂寺は南北朝期の五輪塔が見られるお寺ですが、創建は江戸時代初期、平賀玄信の曾孫とされる旗本の大井政成が開基となっています。大井政成は小笠原長清を先祖とする信濃国佐久地方の国衆で、耳取城主(小諸市)でした。武田信玄が信濃を制圧すると家臣となり、武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、依田信蕃の配下(家臣ではない)となります。また、信濃大井氏の惣領職と旧領の耳取1300貫を安堵されています。
小田原の役後に家康が関東に移ると、依田信蕃の子の康勝は上野と武蔵に3万石を与えられて藤岡城主となり、配下の政成は藤岡付近に領地を与えられています。康勝が大阪で囲碁の相手を口論の末に殺害して改易になると、政成は子の政吉を連れて康勝に同行して高野山に登りますが、関ヶ原前の小山出陣の際に呼び戻されて復帰します。信濃の地理に詳しいことから秀忠軍に属する予定でしたが病で同行出来ず、子の政吉が従い、上田城を守備しています。
その後政成は亡くなりますが、寛政譜には「其のち故のごとく藤岡の采地をたまひ、八年九月十六日藤岡において死す。年五十五。法名玄頂。かの地阿久津村の玄頂寺に葬る。これ政成が開基せるところなり。」とあり、藤岡付近の知行地は、阿久津村だったことがわかります。
依田(当時は松平)氏に与力する旗本として知行地を持ち、この地で亡くなっていることは、陣屋を構えていたとも考えられ、幕府成立前の大身の旗本が陣屋に隣接、もしくは陣屋の跡地に菩提寺を創建することも珍しくないことから、素人の妄想かもしれませんが、お城は大井氏の陣屋の可能性もあるように感じられます。









