久野城
久野城([小坂城 周辺城郭])
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久野城の口コミ情報
2025年04月28日 マグロ常陸介祐平
土岐氏の家臣野口氏のお城と思われます。西に1km程にある観音寺(本堂・仁王門が県文化財となる古刹で、観音寺館として城郭構造をもつ)の記録では、
・大永5年(1525年)土岐原治頼が観音堂を再建
・永禄2年(1559年)当旦那野口備前守源信久が観音寺を修復
・天正5年(1577年)当郷領主土岐越前守と小旦那野口備前守源信久が観音寺を修復
となっており、土岐越前守(治英の弟頼勝?美浦村お散歩団参照)が地域の領主として出ています。小田原の陣後に土岐氏が領主でなくなると、お城は廃城になったと思われますが、慶長12年(1612年)に内藤清康が家臣楠織部と観音寺を修復した際も、当郷旦那衆として帰農したと思われる野口民部・野口内匠・野口兵庫の名が見られるようです。
お城は、牛久大仏の南側の台地の南東角部分を主郭として、北側を2郭、西側を3郭とする3つの郭で構成されています。東側の墓地入り口から入城すると、左側には墓地となる2段の狭い腰郭、右側には犬走状の通路(写真4枚目)と腰郭が確認できます。その上段が主郭で、虎口(写真6,8枚目)の右側から2郭と接する北側にかけて土塁が囲みます(写真1,2,3,7枚目,2枚目は虎口状に欠ける)。主郭の中央西側は現代に繋がる野口家の墓域となっています。主郭と3郭は空堀で仕切られ、土橋が見られます(写真5枚目,かなり薄い)。3郭は薮ですが低い草で覆われていて歩けない状態ではありませんが、残念ながらスーツに革靴の為、侵入を断念、3郭西側にある二重堀切は確認出来ませんでした。
2022年03月16日 昌幸安芸守更に吉
牛久市を流れる乙戸(おっと)川北側の台地にに築かれた久野城。同じ流域の福田城・下小池城と連携をとりながら、常陸土岐氏の本拠である江戸崎城の西側の守備を担った城と思われます。
主郭は地域の墓地になっています。
その北東に二郭があり、城中で一番広く現在は畑となっています。
北西にある三郭は堀切と段郭があり、この城の防御が感じられる遺構が残ります。
とは言ってもふかふかの関東ローム層上に築かれた城、廃城後400年が経ち、凹凸がかな〜り弱めになっています。
車は牛久大仏の駐車場に停めました。城を回り込むように歩き10分で城跡に着きます。
【写真の説明】
①主郭土塁。二郭側のみにある。
②主郭-二郭間の空堀
③主郭-三郭間の空堀
④三郭端の二重堀切
⑤二重堀切のうち堀切一条。虎口(写真左下)も確認できる。
⑥三郭谷側につくられた段郭
⑦久野城遠景
2020年10月10日 国府左京大夫城介
江戸崎土岐氏の支城の一つ
【歴史】
築城年代は不明だが、永禄二年(1559年)には野口備前守の支配下にあり、天正五年(1577年)には土岐越前守の支配下にあった。野口氏は土岐氏の降ったと見られ、そのまま土着したとのこと。廃城したのは不明だが、おそらく土岐氏が没落したのと同時に廃城になったと思慮される。
【遺構】
牛久大仏がある牛久浄苑の南にある台地に築城されている。
乙戸川に面する南側が1郭にあたり、現在は大部分が墓地となっているが、土塁等が遺構も残っている。1郭と3郭の間には横堀があるが、かなり浅く埋められた可能性は高い。3郭には、北西側に折れ曲がった虎口も存在している。また、牛久浄苑と久野城の間は、谷戸となっており、段曲輪らしき遺構も確認できる。
【感想】
特に看板がある訳ではないので、入口が分かりにくかった。草刈りをしていた地元の方に登り口を聞いて、ようやく確信してから登城できました。
主郭部分と思われる部分は墓地となっており、その背後は完全に藪となっていた。一応、空堀や西側の虎口を確認することができた。写真だと、藪が激しくて全くわからない状態ではあるが…
【アクセス】
牛久駅から牛久浄苑行きのバスで、牛久浄苑で下車し、徒歩で10分程。乙戸川の面した南側にある墓地(牛久浄苑ではない地元の墓地)入口から登城できる。
車の場合は、牛久浄苑の駐車場を利用できる。
【写真】
1:久野城の入口
2:1郭の土塁
3:1郭と3郭の空堀
4:3郭の虎口
5:久野城と牛久浄苑の間の谷戸