玉造城
玉造城([芹沢城 周辺城郭])
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玉造城の口コミ情報
2024年03月17日 RED副将軍
南方三十三館の仕置きにおいて謀殺された玉造氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。寛正年間(1460年〜1466年)に玉造氏により築かれたとされるその居城です。
玉造氏は常陸大掾氏の一族であり、治承年間(1177年〜1180年)に行方景幹の四男である行方幹政が玉造郷を領して玉造氏を称したのが始まりです。
鹿島社の総検校や大使役を務め、行方氏の四頭(小高・島崎・麻生・玉造)の一家として勢力を振るいました。
1591年、佐竹義宣が独立性の強かった鹿行の国人衆を粛正した「南方三十三館仕置き」が起こります。佐竹義宣は梅見の宴と称して常陸太田に呼び出し鹿島城の鹿島清秀など9氏16人が謀殺。 城主の玉造重幹もその一人であり、太田城での謀殺が報じられると、玉造氏家臣は玉造城に籠城し押し寄せてきた宇垣伊賀守らと抗戦するも落城。玉造氏は滅亡し、廃城となりました。
見所
三方を低地に囲まれた丘陵上に築かれており、「中館」「東館」「搦」の3つの郭で構成されていました。
中館が主郭とされ、東半分に土塁が巡っていますが内部はヤブ化。残り2つの郭は農作地となっています。
郭は堀切で区切られていた様で道路に堀底道の面影があります。堀底道を隔てて南側の帯郭は神社となっていました。
行き方は、大場家住宅を目標に設定。北側背後にある丘陵上が城域であり、北側に案内板が設置されています。
2024年03月04日 マグロ常陸介祐平
常陸大掾氏の一族の行方宗幹の四男幹政が、平安時代末期に玉造に配され、子孫が室町時代中期に築城したようです。城は、中館(本丸)、東館、搦の三つの曲輪で構成されています。
最後の城主の玉造重幹のときに、佐竹氏による「南方三十三館謀殺事件」で廃城となっています。
今回、説明板のすぐ裏の搦に入って見ましたが、背の高い笹(細い竹?)の密生する激薮で、お堂が潰れていたりと大変なお城でした。土塁(写真5,6枚目)を確認したところで引き返そうとしましたが、激薮で周囲は高さのある垂直な切岸状となっており、出口が見つからず狭い曲輪内を10分近くさまよってしまいました。行かれる方は、入口をしっかり覚えておきましょう。
近くには、水戸藩が開校した玉造郷校跡(腰曲輪かも)、水戸藩の大山守を勤めた大塲家住宅(写真7枚目)、玉造氏の寄進した鐘を鋳直した県指定文化財の鐘(写真8枚目)がある宝幢寺があります。