小栗城
小栗城([久下田城 周辺城郭])
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小栗城の口コミ情報
2025年10月19日 マグロ常陸介祐平
大掾氏の一族、小栗氏のお城です。小栗氏の初代は重家や重義など系図によって異なりますが、平安時代後期には小栗御厨に居住していたようです。
室町時代中期になると、小栗氏は鎌倉府の管轄でありながら将軍と直接主従関係を結び、京都扶持衆となります。上杉禅秀の乱では、禅秀側に味方して鎌倉公方足利持氏より所領の一部を没収され、恨んだ満重は応永25年(1418年)「小栗満重の乱」を起こします。応永29年には宇都宮氏・桃井氏・真壁氏などと共謀して、結城城を奪うまで反乱は強大化しますが、応永30年には持氏の大軍に敗れ、満重は小栗城で自害しています。
満重の子の助重は、満重の乱で三河に落ち延び、永享12年(1440年)の結城合戦で幕府側で参戦し功を立て旧領に復帰するも、足利成氏の攻撃を受け小栗城は落城、助重は出家して8代将軍足利義政の絵師となったとされています。助重が本当に小栗城に復帰したのかは、怪しいようですが、助重は浄瑠璃や歌舞伎で知られる「小栗判官」のモデルとなっています。なお、江戸時代に高田藩で起きた「越後騒動」の主役の筆頭家老小栗美作(正矩)は、助重の子孫とされています。
小栗城はその後、境目の城として結城氏~足利氏~小田氏~結城氏と支配者が入れ替わり、戦国期を通して存続するも、お城の構えも変化していったとされています。
石碑(写真1枚目)の先へと進むと、掘底道となりその西側にも空堀が見られ、お城の東側は、2重の堀で守られています(写真2,3枚目)。東側から本丸へ登る途中は帯曲輪のような段曲輪があり、本丸の東側は薄めの堀があり、本丸の南の鉄塔が立っているところが、Ⅲ郭のようですが(写真6枚目,右側は本丸の堀)、完全な平坦地ではありません。本丸(写真5枚目)に登ると、東側のみ土塁があり、北側の不自然な盛土が櫓台のようです(写真4枚目)。本丸の西側にあるⅡ郭は、薮が酷く入れません。Ⅲ郭の端から鉄塔の保安用と思われる下山路があり、進むと笹のトンネルとなっており、正面以外は見えません。一旦道路に出て東へ進み、適当なところで薮(入れないほどではない)に入るとⅤ郭の削平地となりますが、曲輪の東側は傾斜のある空堀のようになっているので(写真7枚目)、先人様の口コミ通り、削平地は空堀を慣らした畑跡と思われます。
小栗の地は、平安時代後期には伊勢神宮内宮の御厨となっており、お城の南東側には小栗内外大神宮が鎮座しています。2棟並ぶ本殿は延宝7年(1679年)の建築、東側に建つ遷宮(写真8枚目)は天正2年の建築で、共に重要文化財に指定されています。
お城から、3.5km程南に太陽寺跡があります。太陽寺は小栗満重の建立とされ、助重が嘉吉2年(1442年)に満重と家臣の供養塔として、9層の多層塔と五輪塔を建立しています。また、江戸時代に入り平姓小栗氏ではなく、又一と同族の源姓松平一族の旗本小栗氏が、太陽寺に八幡菩薩像を奉納しています。
2024年02月12日 昌幸近江守更に吉
常陸と下野の境目の城、小栗(おぐり)城。北を流れる小貝川を天然の水堀とする堅固な城です。
平安末期の築城で、常陸大掾氏一族がこの地に入り小栗氏を称しました。
室町時代、幕府に反目するようになった鎌倉公方に対して危機を感じた幕府は、関東・東北の武将と直接主従関係を結び、彼らは京都扶持衆と呼ばれ、小栗氏も組み込まれました。そして京都より遠く離れた地で激しく争います。小栗満重は乱の中心人物にもなったほどです。
小栗城は落城と奪還を繰り返しますが、結局小栗氏は滅亡しました。
戦国時代は宇都宮氏と結城氏の争いの舞台となり、小栗城は宇都宮方の小宅氏が居城としました。しかし豊臣秀吉の命により宇都宮氏が改易されると、小栗城は廃城になったようです。
古い時代から使われてきた城なので、年代の違う遺構が混じっていると感じます。
まず中心的な3つの郭は古くからの遺構で、郭が丸く堀もそれに沿って掘られ、横矢など技巧的な部分が見られません。
城の東側の遺構は折れの入った深く大きな堀が造られています。I郭も東側のみ土塁と櫓台、段郭があります。何らかの脅威を感じるようになり、戦国時代に新たに造られた遺構と思われます。
※Ⅲ郭下も段郭が連なりますが、太平洋戦争後に開墾された畑跡だそうです。
車は内外大神宮か、その脇の砂利道を進んだ左側に広場があり、そこに駐車可能です。
【写真の説明】
①城域東端の堀底道。ここを通り登城。
②本城域下の堀切
③実は土橋の上から。笹薮を取り払えば相当立派なものが出てくるはず。
④I郭東側の帯郭。これが2〜3段ある。
⑤I郭を囲む堀。
⑥II郭へ向かう堀。流石に進めず。
⑦I郭内。土塁が残る。
⑧麓の内外大神宮。小栗氏が神官を務めた。
2021年05月11日 龍馬備中守【】
茨城県の筑西市にある小栗城☆小栗判官で有名な小栗氏の居城です☆この小栗城は常陸大掾氏の一族の小栗氏の居城になります☆大掾重幹の子・重義は、ここに居住して来て小栗氏を名乗りました☆
歴史は古くて平安時代からこの地に根付きました☆
室町時代には【小栗満重の乱】の舞台になっていて小栗城主・小栗満重と京都・扶持衆が反乱を起こして鎌倉府の足利持氏と激戦を繰り広げました☆
鎌倉府軍の大軍に反乱軍の多くは劣戦を強いられ最終的に小栗城で自刃してしまい小栗氏は没落して行きます☆
【小栗満重の乱】の後は小栗城は鎌倉府領になりましたが、足利持氏の没後に室町幕府VS結城氏&関東の諸豪族が戦った【結城合戦】で小栗氏は戦功を挙げ旧領に復帰します☆
が…しかし…足利成氏からの攻撃を受け、小栗氏は滅亡しちゃいました【享徳の乱】
戦国時代には下野国の戦国大名・宇都宮氏の家臣・小宅氏の居城として坂戸城と共に使用されました☆小田城・城主の小田氏、結城家臣の下館城・久下田城・城主の水谷氏に対する宇都宮氏の防衛拠点として機能しました☆
小宅尚時が城主の時に結城氏に攻められ一度は結城氏の手に渡ってしまいますが、再び宇都宮広綱が奪還します☆









