石毛城
石毛城([豊田城 周辺城郭])
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石毛城の口コミ情報
2025年09月13日 マグロ常陸介祐平
豊田城から北西に約3km、鬼怒川を挟んだ向石毛城同様に城址には巨大な石碑が建ち、お城の歴史がびっしりと刻まれています。
石毛城は、天文元年(1532年)に豊田城主四郎政親が多賀谷氏の抑えとして構築し、次子石毛次郎政重を拠らしめたと伝わるようです。永禄元年(1558年)小田氏治を伯父とする政重は、兄の豊田治親と共に来攻する多賀谷氏を長峰原・蛇沼に迎え撃ち、小田氏の援軍を得て撃退、天正元年(1573年)に再び多賀谷氏が攻め寄せるも小田氏の援軍もあり、撃退しています。天正3年9月になると政重は石毛城中で脳卒中で敢ない最後を遂げ、1ヶ月後には本家豊田城主の兄治親も叛臣の謀に逢い毒殺され、豊田城は多賀谷氏に乗っ取られています。治親夫人と幼い二子は、武蔵柿木(埼玉県草加市)に逃れています。石毛城は、多賀谷氏の重臣白井全洞に攻められ善戦するも幼君太郎正家の安泰と治親毒殺の犯人飯見大膳の引渡しを条件に降伏しています。その後石毛城は多賀谷氏一族の拠る処となりますが、天正13年に多賀谷家の内紛により廃城となり、後顧の憂いを除くために焼却されたと言われているようです。城址に鎮座する八幡宮は、慶長20年(1611年)に旧臣が宇佐八幡宮を勧請したものと伝わっています(碑文をコンパクトに要約)。
お城は、鬼怒川の自然堤防上の微高地を利用して造られたと考えられているようですが、残る遺構は神社の西側から北側にかけてL字形に土塁が僅かに残るのみで、全容は不明のようです。鬼怒川対岸の向石毛城の規模を考慮すると、そこそこ規模はあったのではないかと思われます。
お城の近くにある興正寺は、正家が中興の祖とされ、正家夫妻の墓があります。また、夫妻の墓の隣には、他所から移された、建長年間に執権北条時頼により建てられた鎮守府副将軍豊田四郎将基の供養塔が見られます。