車丹波守遺恨の地
車丹波守遺恨の地([吉田城 寺社・史跡])
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車丹波守遺恨の地の口コミ情報
2024年08月25日 長森原
「車丹波守憤恨の地」
写真奥に見えている祠が吉田城主・車丹波守斯忠の遺骸を弔った車塚。
“猛虎”と呼ばれた猛将・車丹波守斯忠が仕えた佐竹家は、関ヶ原の戦後の仕置きにより常陸国54万石から出羽秋田20万石に領地替えになりました。しかし吉田城主・車丹波守斯忠はこの仕置きに対して猛反発、徹底抗戦を唱え水戸城奪還を企てるものの失敗、捕らえられて慶長7年7月に磔刑に処せられたと伝わっています。
幕末に吉田松陰が水戸を訪れた際、この車塚を訪問・拝礼し、東北遊日記に、
「有平原、蓋操塲也、拜車丹波祠、車佐竹氏之臣也、佐竹氏徙封時嬰壁戦死云」
(平原あり、蓋し操場〔=処刑の地〕なり。車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏の徒封の時、壁〔とりで〕を要〔まも〕り戦死すと云ふ)
と記しています。
なお、この車塚が有る台地上にも、吉田城と対になる城が存在した事が近年の発掘調査で判ったそうです。
◯「広報みと」水戸の城散歩・吉田城と大鋸町遺跡〜双子の城の謎
https://www.city.mito.lg.jp/page/68195.html
双子の城の謎を解くヒントは、両城の間を通っていた街道の存在だそう。
この吉田城と双子の城の間を抜ける道が水戸と茨城町(小幡城がある所)を結ぶ重要な街道の一つだったと考えられているようです。