小深要害
小深要害([茂木城 周辺城郭])
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小深要害の口コミ情報
2026年01月25日 クララはもう歩かない
下野国茂木保現況調査報告書④小深要害
茂木町の文化財地図によれば、新たに見つかった城だということだが、実際に見てみると、俺には城っぽいなあぐらいしか言えない。
まさか、町の文化財地図に登録するぐらいなんだから、然るべき研究者たちがしっかりと検証した成果なんだろう。城館に関する報告部分は、茨城城郭研究会の方たちが執筆しており、事業の主体は茨城大学である。
それにケチをつけるなんて、ありえないって言われそうだが、疑問に感じたんだから仕方ない。
新規に見つかった城館や平地居館のいくつかについて、報告書の縄張図を用いて、実際に見に行くと、微妙なのだ。
垂直に切り立つ断崖にある竪堀だなんて、もはや、ありえなさすぎて、笑っちゃうものもあるんだから仕方ない(リア攻めマップの山内小屋)。
小深要害は、縄張図の示しているであろう範囲を5周歩き回っても、とにかく微妙なのだ。本当に曲輪なのか、どう防御したいのか、なんだかイマイチ曖昧な感じなのである。もし、城であるなら、街道bを取り込んだ関所の城なんだろうか。短い解説文には城全体に対する見解や伝承の有無の記載がないから、モヤモヤしっぱなしである。
城のある場所は、昭和の頃には畑として使っていたと聞き込みで証言を得ている。また、遥か昔は、河岸があったのだろうか。昭和の頃は、那珂川でのサケの漁業もかなりさかんだったと聞いた。それがそのまま、中世に当てはまるとは言えないが、茂木と烏山とを山越えの古道がつなぐ、人や物が行き交う拠点にあった城とは言えそうだ。城だったならだが。また、この城の麓は宿と呼ばれるという。
古道だったという認識は麓の方にもあった。城へ登る切り通しの道の手前に、馬頭観音の石像物があったから、古道であることまでは疑わないでおくことにした。
城が畑として改変されたのかもしれない。たしかに畑にはいらないような立派な切岸があるように見える。aとAで二重堀みたいに見えなくもないけど、なんか変だ。たしかに、ここを城だと感じる人もいるのはわかる気もするが、俺には城っぽいところぐらいにしか見えない。
俺はここに行くことをオススメはしない。
なぜって、北側の遺構がないからだ。この縄張図の腹立たしいところは、堀切BCDが見当たらないことだ。解説文にもしっかり堀切BCDがあると書いてある。だけど、どこにあるかさっぱりわからないのだ。
2025年に公開された報告書なんだが、いったい、いつの時代に見に行ったんだ?殲滅したのか?風化したのか?
本当にわからないのだ。こんなにはっきり縄張図に書いてるんだから、このヤバい遺構を期待して見に行く人はいると思う。俺もその1人だ。
この報告書については、色々と疑問に思っている。掲載の他の茂木町の城でもなんだか縄張図に理解できない遺構があることを検証して書いてきた。
また、報告書の解説文では城内に今は麓にある神社があったとあるがこれも疑問。その神社は茂木町史には山頂にあったと書いている。城がある場所は、山の中腹でしかない。
そこで、確認のために山頂まで歩いて行くと、神社跡の礎石らしきものがゴロゴロあり、その周辺だけ、なぜか水が湧いているのか少しぬかるんでいた。神社の場所は町史の記載が正しいのではないか。それとも、何か根拠があって、神社が城内にあったとしているのだろうか。報告書にはその辺りが全く書いていないから、本当にわからない。
やっぱり、写真を撮る気がしなかった。馬頭観音すら撮るのを忘れて帰るぐらい、モヤモヤしたのだ。
茂木町は一部、微細な地形図が公開されていない地域があり、ここはその地域にあたるため、ボヤっとした赤色図からもBCDは判別できない。
縄張図のたぶんⅢかDらへんの写真(縄張図と現地がよく噛み合わないから、らへんとしか言えない)と山頂の何か建物の礎石?らしきものが散らばる場所。
縄張図は報告書より。









