多田木砦
多田木砦([椿田城 周辺城郭])
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多田木砦の口コミ情報
2025年09月19日 マグロ常陸介祐平
佐野市のサイトでは、「只木図書の築城、戦国時代、足利長尾氏と佐野氏との確執の中で足利側の砦であった。」と簡単な来歴ですが、戦国時代初期に成立したとされる鎌倉大草紙には、山内上杉氏と古河公方足利成氏との攻防戦の舞台として登場しています。享徳の乱では、長尾昌賢(景仲)が武州上州の軍兵を催し、上杉藤朝(定頼の子)や庁鼻和上杉憲明が只木山に布陣するも、成氏が只木山に押し寄せると、兵糧を絶たれた越後(越後上杉氏の援軍)上州の兵は落ちて行き、長尾昌賢は領国の一揆を集めて騎西城に逃れています。
只木砦を築城したとされる只木氏ですが、幕末に仙台藩で活躍した但木土佐の先祖は、この地の出身とされており、伊達朝宗の代には只木伊賀守重信(橘姓)が従っていたようですので、平安時代後期以前から只木氏はこの地に存在したかもしれません(只木氏を平姓長尾氏の一族とする説もあるようです)。
お城は、多田木山の東側の山丘と裾部から東北部の山丘までの東西50~120m、南北約250mに及び、北部丘陵頂に東西2列ずつ段階状、その東方裾部に約120mの帯郭、東側斜面中央部窪地状の北方に7段、南方に6段の腰郭・腰郭があり、窪地には現在も水を持つ井戸跡があるようです。(佐野市の解説)
お城には、皆川病院の南にあるグループホームあじさい横の土塁状の土盛り付近から入りました(写真1枚目,ホームの脇からは簡単に入れそうですが、赤外線センサーもあり躊躇しました)。かなりの薮ですが、佐野市の説明通り、斜面の南側や東側に棚田のような腰郭が連なるのがすぐに確認できました(写真2~7枚目)。山頂を目指して薮を進もうとすると、行く手には2頭のイノシシがおり、目が合うと走り去って行きましたが、少々怖くなり探索を諦めました。グループホームあじさいから、30m程の距離に生息しているとは驚きです。
多田木の地は、家康の関東入国後に古河公方家の一族で幕府高家となる宮原氏の知行地となり、多田木砦の北側にある東陽院を菩提寺としています。宮原家の江戸時代初期の当主義久は真理谷信政(上総武田氏)を母に持ち、正室は武田勝頼の娘の貞姫で、東陽院には宮原家歴代当主の墓と貞姫の墓があります(写真8枚目)。住職に貞姫の墓石を尋ねたところ、先代住職から教えてもらったが、忘れてしまったとの事で、確認できていません。