立地
安岐町東方の安岐浦に位置し、伊予灘に注ぐ安岐川河口左岸の標高約13~16mの下原台地に立地する。
台地の東端部に築かれており、北は自然の谷、東から南は海・川に面し断崖となる。
現状
字本丸・天守・小丸・内堀・南堀・北堀・門口・西出口・浦門・馬落等の城郭名称が残り、城域の範囲や構造を推定できる。一般国道213号及び県道201号線が通り、その多くは住宅地が占め、他は畑地、水田、山林となっている。
住宅や道路建設によって、地形環境が大きく改変されているが、畑地や山林部には掘や土塁が比較的良好に遺存している。
また、字本丸地区は昭和58年度より3年次にわたり一般国道213号安岐バイパス工事に伴う発掘調査(大分県教育委員会編『安岐城跡・下原古墳』大分県文化財調査報告第76輯 1988)が実施さており、15世紀後半~17世紀初めにかけて大きく3期にわたる遺構変遷が明らかとなっている。これによって、字本丸の東端部は削平消滅している。
構造
本丸地区の調査は、堀と土塁(報告では土塁基部に石積みを持ち、表面に栗石を葺くとあるが、栗石は崩壊した石垣の裏込め石と判断される。)で囲った主郭の約東半分にあたり、北面の土塁と東面の石垣と北東隅の石垣による櫓台が残るが、これら遺構の下部に大規模な整地層が検出されている。
さらにその下で溝や堀で区画される掘立柱建物跡群が確認され、大きく3期にわたる遺構の変遷が明らかにされている。
I期は主屋を含む建物跡群を幅1.5~3mの溝が囲み、南北80m、東西30mほどの規模をもつ居館段階。 II期は南側で整然と配置される建物群を、上幅約4m、深さ約3.8m堀と上幅約7m、高さ約2mの土塁で囲い、前段階の居館をさらに拡大、拡充し防禦機能を強め
館城へと発展した段階。
III期は大規模な整地を行い、石垣や瓦葺の礎石建物が出現し、壮大な規模のいわゆる近世城郭の段階となる。出土遺物の年代からI期を16世紀中頃、II期を16世紀後半、III期を16世紀末~17世紀初頭とされ、大きな画期をIII期とする。
すなわち、最終段階の遺構群は、新たな築城技術である織豊系プランの城郭と判断されている。従って、I・II期は戦国時代の城館遺構となる。
縄張りは、東端部の河口に近い断崖を背にして主郭を設け、西方向に堀と土塁を巡らす3つの郭により主郭部を防禦する構造で、主郭部を片隅に寄せ奥深く防禦する梯郭式の平城である。また、主郭部の北側には船入を設け、北面を堀と土塁で巡らす海城的機能を兼ねている。
平坦な台地を堀で切断し、自然地形をたくみに利用した城の総面積は約130,000平方mの規模である。主郭は、約方1町の規模で、調査によりさらに堀で4つに区画されることが分かっている。
隅櫓は、北東部と南西隅に現在確認できるが、大正13年作成された図(『史蹟名勝天然記念物調査報告第2輯』1913)では、北西・南東方向にも記されおり、主部を囲む土塁の四隅には、石垣による隅櫓台があったと考えられる。
また、主部を囲む西土塁中央部に方形の高まりがあり、字名から天守台とみることも可能である。主部を囲む堀は、内堀と考えられ幅約12~15mで、西面土塁は高さ約5m、上福7~10m、下幅12~15mの規模である。
主部西方の施設は、土塁と堀で区画される3つの郭が復原できる。主部から西へ第二郭・第三郭・第四郭すると第二郭は、字小丸・内堀を言う。北面では堀と土塁の一部が残存し、主郭を囲む内堀と接する東隅に両袖桝形的虎口(北虎口)がある。
第三郭は最も広く、字長若寺・門口町・ホキを含み、北西部に2条の堀と土塁、西面北隅に隅櫓台がある。この北隅櫓台と対置すると思われる遺構はすでにない。第四郭は帯郭的であり、字西出口・南堀を含み、西面から南門にかけて人工の堀をめぐらし、北はしだいに傾斜し、字北堀と称する自然谷に接する。
この堀は城域を画する外堀と評価される。大手口は、外堀の南方の台地への登り□あたり、西虎口は字西出口の土橋遺構、搦手口は字裏門(東)にそれぞれ比定されよう。このように、本城は在地城館とは一線を画し、県内における永禄~慶長期の近世城郭の縄張りを知る好例と言える。
なお、出土遺物の大半は、I・II期の遺構に伴い、しかも青花等の多量の輸入陶磁器とともに鍋や釜、播鉢といった国産陶器等の生活雑具を多量に含んでおり、非日常的施設ではなく生活を基盤とする居館のあり方を示している。
歴史
文禄2年(1593)、大友義統除国後、豊臣秀吉は国東など北4郡の検地奉行に
鳥取城主宮部善祥坊法印珪俊(継潤)を派遣し検地を行い、文禄3年熊谷直陳に1万5000石が与えられ、安岐城には熊谷外記を留守として置かれた。
II期の縄張りは熊谷氏の改修によると考えられる。熊谷直陳は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、西軍に属し黒田如水に攻められ落城し、その後廃城となる。
このとき「熊谷城」(文書番号古文書部876 ・ 877)と記され、「黒田家譜」では城主熊谷内蔵允の居城で、熊谷外記と云うものが留守として楯籠るとあり、構えについては「此城の形は、南北に長くして、東は海なり、東北は石壁高く、屏風を立たるがごとし、西のほうは山近し。
城と西の山との間は平地にて、堀をほり南の方を大手とす。土橋あり。又乾の方にも土橋あり。平城なれど要害堅固なり」とあり、現況や調査成果とほぼ合致する。
整地層下の居館段階については、国東田原氏の居館と考えられるが、史料上の初見は天正8年(1580)の13代田原親貫の反乱に関連する史料群である。
天正8年7月10日の大友円斎書状(文書番号古文書部509)では荒木伝兵尉に緒軍が「安岐切寄」攻めの軍忠を賞しており、大友家文書録鋼文では田原親貫の拠る「安岐塁」と記され、切寄・塁と呼ばれた。
同年7月19日の田原親家感状(文書番号古文書部514)には「切寄構口」、同年8月13日の大友円斎書状(文書番号古文書部521)には、安岐の切寄へ粮船が安岐の湊へ入ろうとしたが警戒厳重であったため退散したと見える。
同年9月15日の大友義統感状(文書番号古文書部545)には「切寄高櫓□」とあり、防禦の備えた状況が伺え、同年10月14日義統書状(文書番号古文書部573)に初めて「鞍懸・安岐両城令落去」とみえ、城として認識されている。この大友氏が攻め落とした安岐城とは、年代からII期段階の遺構(
館城)を示す。
参考文献
・『大分の中世城館』第四集総論編(大分県教育委員会)2004年
情報提供:国東市教育委員会文化財課