概要
行橋市とみやこ町の市町境にある標高216mの馬ヶ岳に築かれた中世の山城です。「馬ヶ岳」の名称は2つの峰が鞍を載せた神馬を連想させたためつけられたといわれています。
馬ヶ岳城は豊前国の重要拠点であることから、中国地方の大内氏、毛利氏、豊後の大友氏などが激しい争奪戦を繰り広げました。
遺構
山城は山に土木工事を施して要塞化したもので、様々な防御施設があります。馬ヶ岳城は東西2つの峰の頂上を曲輪とし、西側を本丸、東側を二の丸としていたといわれています。その他、斜面を登ってくる敵の動きを制限する竪堀、尾根伝いに侵攻してくる敵を妨げる堀切、斜面を削って切り立たせた切岸などがあります。
発掘調査を行っていないため建物があったかは現在のところ不明です。馬ヶ岳城の居館は馬ヶ岳の北側の谷にあったと推定されています。
その東の尾根には南北方向に数百mにわたって土塁や畝状空堀群(畑の畝のように空堀を連続させたもの)が築かれており、登山道沿いに見ることができます。
歴史
馬ヶ岳城は天慶5年(942)に源経基が築き、14世紀半ばから15世紀前半にかけて新田氏が拠点としていたという伝承がありますが、これらを裏付ける史料は確認されていません。史料に確かな記録が表れるのは応永12年(1405)のことで、九州探題の渋川満頼の書状にみられる馬ヶ岳城を攻め落としたとする記述です。また、天正3年(1575)には京都、伊勢神宮へ旅行する島津家久が「長野殿の城有」と記しています。
天正14年(1586)になると天下統一を目指す豊臣秀吉が九州で一大勢力を築いていた島津氏を征伐するため、黒田官兵衛が軍奉行を務める軍を投入します。当時、馬ヶ岳城主であった長野三郎左衛門は秀吉方に服属し、馬ヶ岳城は秀吉の勢力下に置かれました。
翌年3月には秀吉自ら軍を率いて九州へ上陸し、馬ヶ岳城に入ります。ここで秀吉は2泊し、その間に秀吉と敵対する秋月氏の
岩石城(添田町)攻略のための軍議を開いています。軍議の結果、猛攻をかけることが決まり、難攻不落で知られていた
岩石城をわずか1日で陥落させました。
そのまま破竹の勢いで進撃し、5月には島津氏の本拠である薩摩国まで攻め込むと島津氏は降伏、九州は平定されました。その後、九州国分が行われ豊前6郡が官兵衛に与えられると官兵衛は馬ヶ岳城を拠点としました。その理由は、馬ヶ岳城が古くから拠点とされていたこと、領地の南側に黒田氏の支配を不服とする宇都宮氏がいたことが挙げられます。
これらの反抗勢力を鎮圧すると官兵衛は城下町を形成しやすい平地に
中津城(大分県中津市)を築きます。
このように近世になると山城はほとんど使われなくなり、鉄砲などの新たな戦術に対する防御機能を持たせることと相まって平城へと移り変わっていきます。馬ヶ岳城はちょうどその移行期にある城で、城郭の歴史を知るうえでは欠かせない城といえるでしょう。また、馬ヶ岳の西隣には古
代山城である
御所ヶ谷神籠石も築かれており、古
代山城と中世山城を見比べてその違いを実感するのも面白いでしょう。
情報提供:行橋市教育委員会文化課文化財保護係