名称(よみ) | 益田氏城館(ますだしじょうかん) |
通称・別名 | 益田氏城館[三宅御土居・七尾城] |
所在地 | 島根県益田市三宅町他(地図は三宅御土居を示す) |
天気情報 |
11/22(金) 降水確率:40% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 島根観光連盟[電話] |
分類・構造 | 城館遺跡群 |
築城主 | 益田兼見[三宅御土居]、益田兼高[七尾城] |
築城年 | 南北朝時代[三宅御土居]、鎌倉時代[七尾城] |
主な改修者 | 益田藤兼[七尾城] |
主な城主 | 益田氏[すべて] |
廃城年 |
慶長5年(1600)[すべて] |
遺構 | 土塁、横堀(空堀)[三宅御土居]、曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群[七尾城] |
指定文化財 | 国史跡(益田氏城館跡) |
再建建造物 | 説明板[すべて] |
益田氏城館は、中世の石見で最大の勢力を誇った益田氏に関する城館群である。
三宅御土居跡、七尾城跡が、「益田氏城館跡」として、それぞれ国の史跡に指定されている。
三 宅 御 土 居
三宅御土居跡(みやけおどいあと)は、島根県益田市三宅町にある城館跡。
概要
三宅御土居は、平安時代末期に石見国の国司として下向して建久年間に益田荘に本拠を移した益田氏の居館。また、その詰め城として七尾城が築かれた。築造者や築造時期などははっきり記録されていないが、通説では益田兼見によって室町時代の応安年間(1368年-1375年)に築かれたとされる。益田川の水運(益田本郷地域への流通)や農業用水を管理するために、益田川下流の川沿いに築かれたと考えられている。
戦国時代後期、毛利元就と対立することとなった益田藤兼は七尾城に本拠を移したが、毛利氏と和睦してその傘下に組み込まれると、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に戻っている。元祥は三宅御土居を大改修したとされるが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の周防・長門への移封に伴って元祥も長門国須佐に移り、三宅御土居は廃城となった。
江戸時代初期に、益田氏旧臣の木村平左衛門尉祐光が同所に泉光寺を創建したため、近現代の都市開発などによる遺構の破壊を免れた。
その後、三宅御土居跡と七尾城跡は、昭和40年代に県の史跡となる。昭和58年7月豪雨で益田川の氾濫による被害を受けた益田市は、新たな都市計画を進める中で史跡の重要性も考慮し、三宅御土居跡の発掘調査結果を復元した「おどい広場」などが整備されることとなった。平成16年(2004年)、七尾城とともに国の史跡の指定を受ける。なお、前述の泉光寺は、三宅御土居跡の発掘調査・史跡整備に伴って平成20年(2008年)に移転している。
遺構
堀と土塁
居館跡の敷地(堀内)は、東西約190メートル・南北約110メートルで、およそ二町分の規模を持つ大規模なものであった。ただし、全体的な形は正方形や長方形ではなく、東辺が北側に長く延びているブーツ形をしているため、珍しい形状である。敷地の両辺(東西)は土塁が残っており、東土塁が長さ87メートル・高さ5m、西土塁が長さ53メートル・高さ4.5メートルである。また、現存する東西土塁の他に、南側にも高さ1.5メートルの土塁跡が見つかっているが、一部が途切れており、周囲よりもせり出た地形が正面出入口(虎口)の可能性が指摘されている。
居館跡の周囲は、全周に渡って堀が設けられており、益田川から引き込まれた水で満たされていた水堀とされる。東西土塁の外側の堀は幅10メートル・深さ2.5〜3メートルの箱堀、北側の堀は幅10〜16メートル・深さ1.5メートルであり、南側は幅20〜25メートルの川をそのまま堀としていた(当初は、幅4.2メートル・深さ1.5メートル程度の浅い堀が存在していたが、後代に埋め立てて帯曲輪にされている)。
建物
堀内からは各時代の多くの建物跡や出土品が見つかっており、13世紀の木組み井戸跡、16世紀の礎石建物跡・石積み井戸跡・鍛冶場跡、12世紀~16世紀の掘立柱建物や陶磁器などを発掘・出土している。
堀内の西側に御殿や庭園などの私邸部、東側に政治を執り行なう邑政堂や鍛冶場・米蔵などの公的施設部があったと考えられる。特に多数の柱穴が見つかった西側の掘立柱建物は、12世紀~16世紀にかけて繰り返し何度も建て替えられており、保存整備されたおどい広場では、6棟の掘立柱建物跡を時代ごとに色分け(異なる金属の埋め込み板で建物跡を表示)して展示している。
七 尾 城
七尾城(ななおじょう)は島根県益田市七尾町にあった日本の城。
概要
七尾城は、石見国の国司として鎌倉時代(建久年間)に益田荘を本拠とした益田氏の城。歴代の益田氏が居館とした三宅御土居などの詰めの城として、標高約120メートルの七尾山に築かれた。山頂の本丸跡(標高約118メートル)からは益田平野から日本海までを一望できる。なお、三宅御土居跡とは、益田川を挟み870メートルの距離がある。
発掘調査により、大小40あまりの曲輪・空堀・土塁・井戸跡などが発掘された。さらに、戦国時代後期のものとされる礎石建物や遺物が多く出土しており、毛利元就と対立した頃には益田藤兼と家臣たちが居城とするなど、戦時のみに使われる城郭という従来の山城のイメージを塗り替えるものである。
歴史
築城時期は諸説あるが、通説では建久4年(1193年)に益田兼高が築城したとされる。史料に登場するのは南北朝時代で、延元元年(1336年)に南朝方の三隅氏が「北尾崎木戸」(当時の大手口)を急襲したことが益田家文書に残る。
戦国時代後期、益田氏は陶氏と縁戚関係にあり、大寧寺の変でも陶隆房(後の陶晴賢)に協力していたが、その陶晴賢が天文24年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就に敗れると、当時の益田氏当主・益田藤兼は毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した。この時、藤兼とその家臣たちは、三宅御土居を出て七尾城内に移住したとされる。その後、藤兼は元就の軍門に降って毛利氏の家臣となり、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に居館を戻した。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は周防国・長門国の2ヶ国へ減封されると、益田元祥も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。
現在
廃城時に、城の大手門は医光寺に移築されて総門としてなって現存しており、「医光寺総門」として1961年(昭和36年)に島根県の指定文化財とされた。
さらに、昭和40年代には三宅御土居跡と共に島根県の史跡として指定される。そして、2004年(平成16年)9月30日、再び三宅御土居とセットで国の史跡「益田氏城館跡」となった。
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2024/10/15 20:16 安芸守カズ
益田氏城館:島根県芸術文化センター、グラントワで開催されている安彦良和さんと山根公則さんの展覧会に合わせて益田市を訪問しました。グラントワもこれで3回目。毎回訪れる度に行きたかった七尾城にようやく登城できました。先人の書き込みを参考に、車は住吉神社の境内に停めさせていただきました。駐車場に隣接する池は内堀の名残だそうです。同じく先人の書き込みのとおり、この城を訪れる際に最大の難関となるのは、住吉神社拝殿までの長い階段で、神社拝殿から本丸までは思った以上にスムーズに行けます。城域は広いですが、良く整備されており、地元の方々に感謝々です。本丸東側にアルミの階段があり、降りたところには手摺り代わりのロープが張り...
2024/06/07 16:28 京急渡島守ドレミファ♫
七尾城:■アクセスJR益田駅からバスで10分弱(210円/IC可)。「益田本町」バス停を通る路線ならどれでもOKなので、10分と待たずに便があります。ただ、どれに乗れば良いかの判別は不可能なので待合所で「益田本町まで」と聞きましょう。路線によっては手前の「水源地前」バス停の方が近いです。「益田本町」からは徒歩3分程、「水源地前」からは1分です。■見所数百段の階段を上り、住吉神社に着いてからが城攻めとなります。整備はされていますが、多少登るのがキツい箇所はあります。案内は今年3月付の物もあって非常に充実しています。今年開催される「山城サミット」の開催に合わせて整備されたと思われますが、城郭の構造も分かり...
来月度の城主争い戦況
1位 みきちゃん石見守さん 157回
2位 ビーンズマン左兵衛督さん 64回
3位 安房守かもシーさん 43回
医光寺総門(遺構・復元物)
三宅御土居跡(遺構・復元物)
16代益田宗兼の墓碑(碑・説明板)
益田氏10代兼方・11代兼見の墓(碑・説明板)
益田氏15代兼堯の墓(碑・説明板)
益田氏19代藤兼の墓(碑・説明板)
益田氏13代兼家(秀兼)の墓(碑・説明板)
益田七尾城の説明板(碑・説明板)
七尾城跡 大手の帯曲輪(碑・説明板)
七尾城跡 西尾根曲輪群(碑・説明板)
益田氏七尾城登城口・住吉神社(周辺城郭)
大谷土居屋敷(周辺城郭)
稲積城(周辺城郭)
大谷城(周辺城郭)
七尾城(周辺城郭)
上久々茂土居(周辺城郭)
四ツ山城(周辺城郭)
高津城(高津柿本神社)(周辺城郭)
萬福寺(寺社・史跡)
医光寺(崇觀寺)(寺社・史跡)
益田市観光協会(御城印)
住吉神社・登城口の駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
史跡益田氏城館跡(七尾城)見学者用駐車場(駐車場)
七尾城跡 登城口(その他)
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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