成り立ち
横手城(よこてじょう)は、その昔
朝倉城(あさくらじょう)といい、戦国時代に横手地域を治めていた小野寺(おのでら)氏の居城であった。
朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山、また山と奥羽山脈につづく独立した要害であり、天文23年(1554)頃、小野寺輝道(てるみち)によって築かれた。
城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵がはい登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので韮城の名があり、後に俗に横手城といわれるようになった。
その小野寺氏の統治は、慶長5年(1600)奥羽合戦の結果終わりを迎える。小野寺氏に代わって常陸54万石の領主佐竹義宣が慶長7年(1602)に秋田藩に入部した。佐竹氏の統治下において、横手城は徳川秀忠が発令した一国一城令の例外として取り壊しをまぬがれた。また、現在の町並みに繋がる城下町が形成された。
時代は下り、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争において、薩摩・長州の藩士が指揮する官軍と、会津藩に与する奥羽列藩同盟軍との間に立った秋田藩は最終的に官軍についたが、仙台・庄内などの同盟軍の攻撃によって火の手が上がり、落城した。
現状
横手城跡は、現在「横手公園」として日々市内外の方々が訪れる憩いの場となっている。
北側には「平和観音像」や「バラ園」などがあり、全国的にも有名な2月の「かまくら」期間中は、かまくらが作られるなど、四季を通じて豊かな自然を楽しむことが出来る。
また、二の丸跡には、昭和40年に三層の「天守閣様式の展望台(通称:横手城)」が建てられた。ここからは横手盆地が一望のもとに眺められ、特に快晴時には日本百名山の一つ、出羽富士・鳥海山の姿を見ることができる。
特記事項
城址南東の一角に「宇都宮釣天井事件」で知られる「本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)の墓碑」がある。
永禄8年(1565)、三河の国に生まれた本多上野介正純は、父正信とともに徳川家康の側近の筆頭として敏腕を振るった。家康没後、老中として秀忠に仕え、元和5年(1619)、15万5千石の
宇都宮城主となり、
宇都宮城を改築し、現在の宇都宮の町割の基礎を築いた。元和8年10月、改易となった最上義俊の城を受け取るために、出羽国山形に出張中、出羽国由利に配流され、5万5千石に改易された。
しかし正純はこれを固辞し、寛永元年(1624)4月、佐竹義宣に召し預けられ、出羽国横手に配流され1千石を与えられた。その後、横手で暮らし同14年(1637)2月29日、横手で没した。享年73。
情報提供:横手市教育委員会
萩原さちこさんオススメの見どころ!
この地域で絶大な勢力を誇った小野寺氏の居城です。16世紀半ばの小野寺輝道の代に最盛期を迎え、秋田県南の大部分と山形県北部まで勢力圏を広げ、戦国大名へと躍進。
稲庭城に本拠を構え、仙北・平鹿・雄勝などを支配下に治めました。横手城の築城年は定かではありませんが、天文19年(1550)に輝道によるとも伝わり、以後、横手は交通の要衝として商業が栄え発展していきました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、小野寺義道は東軍に与しなかったため、翌6年(1601)に石見国津和野へ配流の身となります。横手城も、一時的に最上氏の手に渡りました。その後、慶長7年(1602)に佐竹義宣が秋田に入部すると、横手城は佐竹氏の支城となって最上氏から城を受け取り、伊達(国分)盛重が城代となりました。続いて須田氏、戸村氏と引き継がれ、秋田藩南部の要衝として重要な役割を担います。
戊辰戦争の舞台にもなります。慶長4年(1868)、秋田藩は明治新政府軍とともに奥羽諸藩を相手に戦い、横手城でも戸村義得が中心となって籠城します。しかし庄内藩および仙台藩の大軍に攻められ、炎上して落城しました。
現在は横手公園になっていて、いかにも景色のよい休息スポットという場所です。模擬天守があるのは本丸ではなく二の丸だった場所で、本丸は丘陵の突端部にあります。市立横手病院脇からの登城口が江戸時代の大手口で、本丸北側の武者溜の脇に大手門がありました。本丸にある秋田神社は横手城の遺構を使って建立されているようで、貴重な遺構といえそうです。本多上野介正純父子の墓は城の南東側にあります。
横手城には天守は存在せず、完全なる模擬天守です。昭和40年(1965)に建てられ、史料館になっています。4階の展望室からの眺望は見事で、横手盆地、横手川、鳥海山などの風景が広がります。