安宅氏城館(あたぎしじょうかん)

安宅氏城館 投稿者:越中守松宙右衛門さん

城郭基本情報

名称(よみ) 安宅氏城館(あたぎしじょうかん)
通称・別名 安宅氏城館[安宅氏居館(安宅本城)・八幡山城・土井城・中山城・要害山城(馬谷城)]
所在地 和歌山県西牟婁郡白浜町安宅他(地図は安宅氏居館を示す)
天気情報

03/02(土) 降水確率:20%
9℃[-5]2℃[-3] 詳細

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分類・構造 城館遺跡群
築城主 安宅頼春[安宅氏居館]、安宅定俊[八幡山城]、土井氏[土井城]、榎本直光[中山城]、吉田春秀[要害山城]
築城年 享禄年間(1528〜1532)[安宅氏居館]、室町時代[八幡山城・中山城]、不明[土井城]、明応3年(1494)[要害山城]
主な城主 安宅氏[安宅氏居館・八幡山城]、土井氏[土井城]、榎本(田井)氏[中山城]、吉田氏[要害山城]
遺構 曲輪、土塁[すべて]、石垣[安宅氏居館・八幡山城・土井城・中山城]、横堀(空堀)[八幡山城・土井城・中山城]、堀切[八幡山城・土井城・要害山城]、竪堀[八幡山城・土井城・要害山城]
指定文化財 国史跡(安宅氏城館跡)
再建建造物 碑、説明板[すべて]
安宅氏城館は、紀伊半島南部を本拠とする安宅氏が拠点とした、安宅氏居館(安宅本城)、八幡山城中山城、土井城、要害山城の総称。

「安宅氏城館跡」として、国の史跡に一括指定されている。

安 宅 氏 居 館 

日置川河口部付近の微高地上に立地しており、海上交通・流通に特化した熊野水軍安宅氏の本拠地である。ちなみに安宅本城跡は、周知の埋蔵文化財包蔵地名となっており、その「安宅本城跡」内に、史跡指定範囲「安宅氏居館跡」が包含されている。

小字「城ノ内」を中心に、幅約10m程度の堀で北側と南側を区画し、西側は自然地形により低湿地状となっていたと想定される。東と南側の区画については、地下レーダ探査の調査成果による。居館跡の規模は、南北約120m、東西約100mの不整形な台形状を呈する。

本拠としての安宅本城跡は、安宅氏の来住より、16世紀代にかけて営まれていたと考えられ、16世紀末~17世紀初頭から前半頃には廃絶され、近世から現代にかけて田畑となっていた。その後、昭和20~30年代に再開発され、宅地化している。出土遺物から、紀伊半島を中心とする東西双方向からの交易・交流の様相を確認することができる。東側からは、山茶碗・常滑焼・瀬戸美濃系陶器・南伊勢系土師器、西側からは、瓦器・播磨型土鍋・備前焼などが搬入している。

安宅氏居館跡の特徴として、河川からの比高の著しく低い微高地に営まれており、常に水害の危険があったことが指摘されている。安宅氏があえて、この地に本拠を築いた理由として、水運の利便性を追及したことが挙げられ、船着場が居館と隣接する形で想定されていることも関連する。さらに16世紀前半代には、領域内の寺社整備と関連して、日置湊の整備も進められたと考えられ、日置湊から安宅の船着場・本拠への連携が想定できる。

八 幡 山 城 

安宅氏居館跡の「詰めの城」であり、根小屋式山城となる。南北約200m、東西約120mの規模を測り、最高所は標高約80mである。尾根上の先端に位置しており、急傾斜かつ深田池がある東側を除いた三方向に、遮断施設(横堀・堀切)を設けることにより、城域の内外を明確に区画する構造となっている。

曲輪は大きく三つにわけることができ、頂上部を一の曲輪が占める。一の曲輪は、楕円形状を呈しており、周囲に高さ約1~3mの土塁を巡らせている。曲輪内の中央部は岩盤が露出していることから、攪乱を受けていると考えられる。二の曲輪は、一の曲輪の南西側に位置し、比高差は約12mを測る。面積は、三箇所の曲輪のなかでもっとも広く、東側の切岸をのぞく北・西・南側に土塁を巡らせている。三の曲輪は、もっとも南に位置し、平坦面が他の曲輪と比較して狭くなり、すり鉢状を呈している。

二の曲輪は、平坦部のほぼ全面にあたる約1,000平方mを調査している。発掘調査により、二時期の遺構面が確認され、最終遺構面は火災に遭った後には再利用されていない。出土した遺物から、15世紀後半から16世紀初頭に城が機能していたと考えられる。とくに備前焼の出土が顕著であり、出土遺物の約8割を占める。

中 山 城 

安宅地域よりやや日置川を遡った田野井地域に位置する。環流丘陵となっており、現流路と旧流路が形成した谷によって、独立丘陵状を呈している。最高所は約38mを測り、大小二つの方形の曲輪が組み合わさる。その構造から「館城」としての評価もされており、田野井地域の支配の拠点と考えられる。

遺物の出土量は、八幡山城跡・要害山城跡と比較して非常に少ないが、15世紀後半から16世紀初頭を主としながら、16世紀後半や17世紀前半の遺物も出土している点が注目される。他の山城と異なる出土状況は城の位置づけを考える上で重要である。

土 井 城 

富田荘から安宅荘への街道沿いの丘陵上に築かれている。南北約240m、東西約80mの規模を測り、尾根筋の自然地形を活かした堅城である。

境目の城である「要害山城跡」とは、熊野参詣道大辺路を介して、対となる城跡であり、安宅荘への北側入口となる要地を占めている。そのため、投入された土木量も大きく、築城技術が概して高いのが特徴である。

発掘調査が実施されていないため、時期の把握は困難だが、15世紀~16世紀代の備前焼甕の底部片が表採されている。これまで時期比定の資料に恵まれていなかった土井城跡の年代観を考えるうえで重要な資料となる。

要 害 山 城 

熊野参詣道大辺路富田坂を通じて連携している境目の城(富田荘との境)である。安宅氏の最前線基地として、富田荘(奉公衆山本氏の領域)側の斜面に対してのみ畝状空堀群を設け、防御性を高めている。

山本氏は、明応4年(1495)時点において、義就流畠山氏派(基家)として活動しており、政長流畠山氏派(尚順)である安宅氏とは一時的に敵対関係にあったとみられる。出土した遺物から、城跡が機能していたのも同時期であり、城館の位置づけが明確な事例となる。

情報提供:白浜町教育委員会



城郭口コミ


2024/01/15 11:40_ClaD
藤原城:『近畿の城郭Ⅱ』によると、近世の軍記物『安宅一乱記』に「藤原の要害」として登場し、周参見氏の城とされます。周参見氏は安宅氏の一族で、応永8年(1401)周参見庄に入り、藤原城を築いて居城としたそうです。紀南での多くの戦いで安宅氏と共闘しています。その後も朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで行動を共にし、共に没落しました。最高所の標高274メートルがほぼそのまま比高となります。石を積んだ多重堀切が見ごたえあります。すさみ駅裏の萬福寺にひと声かけて、秋葉神社(周参見城の主郭)を目指して登ってください。そこからはピンクリボンを頼りに尾根を直登しますが、シンプルに頂上を目指せばいいので予想より迷いませんでした。

2024/01/15 11:33_ClaD
周参見城:周参見氏の来歴は藤原城の口コミにも書きました。秀吉の紀州攻めに降伏して所領安堵された周参見主馬太夫は紀伊水軍の一員として朝鮮出兵にも参画しましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後捕らえられ、2年後に没したそうです。城は岩山の中腹で事実上の単郭であり、主郭も長辺30メートルと、詰城といえる規模ではありません。藤原城が本城で、こちらは物見程度のものでしょう。麓の萬福寺(周参見氏の菩提寺)にひと声かけてから登ってください。墓地の上の防獣柵の扉を開けて主郭の秋葉神社を目指します。他には特に注意事項はありません。目立つ遺構もありませんが、藤原城へ行くならここを通過するルートが最も安全なので、必然的...

城郭攻略情報


2023/09/13 09:42
常陸介清蔵
オーシャン東九フェリー東京19:30発。翌朝9:40に攻略しました。
2023/06/18 01:02
あざらし肥前守
西牟婁郡白浜町日置、道の駅志原海岸。(❜21・9攻略)
2021/12/24 14:00
Naka式部大輔
東九フェリー船上で攻略できました。、
2021/07/22 10:02
糺森山城守
朝来駅で。
2021/04/03 15:39
次回は富山産征夷大将軍クララ姫
白浜温泉ホテルシーモア客室WiFiにて安定攻略

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 さかさか紀伊守さん 6

 2位 けんけん隼人正さん 3

 3位 ぽんたろ根室守さん 2

安宅氏城館の周辺スポット情報

 安宅勝山城主郭(遺構・復元物)

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