伊治城とは
伊治城は8世紀後半から9世紀初頭にかけて古代律令国家が、東北地方経営のために設置した城柵のひとつである。奈良・平安時代の陸奥国の政治・軍事の中心である国府
多賀城と平安時代に鎮守府が置かれた
胆沢城(岩手県奥州市水沢)とのほぼ中間に位置する。
8世紀中頃から後半にかけての宮城県北部は、律令国家が積極的に進めていた支配領域を拡大するという政策に対し、蝦夷(えみし)と呼ばれる東北地方に住んでいた人々の抵抗が高まり、非常に不安定な地域だった。伊治城は律令国家が陸奥国内陸部(山道)経営、とりわけ栗原郡を中心として地域の拠点にす
るため神護景雲元年(767)に現在の栗原市築館宇城生野に造られた。造営は鎮守将軍田中多太麻呂(たなかのただまろ)らが中心になり、現地での責任者として牡鹿郡の道嶋三山(みちしまのみやま)が活躍し、約1ヶ月で完成したと記録されている。
伊治城をめぐる歴史的な背景
律令国家は、支配領域を拡大するために関東地方や東北地方南部の人々を宮城県北部へ政策的に移民を行った。栗原市内では伊治城の南側に位置する御駒堂遺跡や源光遺跡などで8世紀前半の関東地方に系譜を求めることができる竪穴住居跡のカマド構造や土器が出土し、考古学的に移民が行われたことが確認されている。
移民は伊治城が造営される以前から行われており、律令国家が大崎平野以南と同じように栗原の地に移民を行い、城柵を設置し、税を取り立てるために郡をつくり、支配領域とすることを目的としていたと考えられる。しかし、栗原では大崎平野とは異なり、移民後ただちに建郡されるということはなかったようだ。蝦夷の人々からの様々な抵抗があったのかもしれない。
8世紀中ごろには軍事拠点として海道に桃生城(宮城県石巻市)、山道に伊治城が造営されるとともに移民政策も続いたことから、蝦夷側は大いに反発し、本格的な戦争の時代に突入した。宝亀11年(780)には蝦夷出身で栗原郡(上治郡)大領(郡の長官)であった伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が、胆沢の地を攻略する拠点を造るため伊治城付近に視察に来ていた按察使紀広純(あぜちきのひろずみ)、牡鹿郡大領道嶋大楯を伊治城で殺害し、数日後には
多賀城を占拠し、略奪や放火をするという「伊治公呰麻呂の乱」が起こった。この事件は、律令国家に大きな衝撃や混乱を与えただけでなく、弘仁2年(811)まで続く、律令国家と蝦夷との戦争が激化する要因の1つとなった。
延暦20年(801)に征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢地方の蝦夷側の指導者である太墓公阿弖流為(たものきみあてるい)らを降伏させるまで4回にわたる大規模な遠征を行った。この間、伊治城は律令国家と蝦夷との戦争の最も北に置かれた律令国家の軍事拠点、つまり最前線に位置していたこととなる。その後、延暦21年(802)に
胆沢城、延暦22年(803)に
志波城(盛岡市)が造営され、律令国家の範囲は岩手県内に拡大した。
構造
伊治城は一迫川と二迫川にはさまれた段丘上にある。発掘調査によりこの段丘全体を利用していることがわかった。東西約700m、南北約900mの範囲を地形にあわせ、不整五角形に土塁や大堀、あるいは築地塀で囲われた外郭、その内部の中央よりやや南に南北245m、東西185mの範囲を長方形に築地塀で囲った内郭、その中に伊治城の中心部である政庁がある。
出土遺物
伊治城跡内からは様々な遺物が出土している。これらの遺物は、伊治城跡に勤務した官人や兵士が仕事で使ったり、生活で使った道具である。焼き物では須恵器、土師器のほか、灰釉陶器、赤焼き土器と呼ばれる土器や瓦が出土している。またこのほか、武器では、弩と呼ばれる弓矢の発射部分である「機」や鉄鏃などがある。
主な遺構
掘立柱建物跡、竪穴住居跡、塀跡、土塁、大堀
読み方
「伊治」は長らく音読みで「いじ」と読まれてきた。しかし、
多賀城跡出土の漆紙文書に「此治城」という表記が発見された。「此」と「伊」は訓読みで「これ」と読むこと、「これはり」から「くりはら」に変化したとみられることから、「これはり」または「これはる」の読みが有力となっている。
情報提供:栗原市教育委員会文化財保護課