高安城(たかやすじょう/たかやすのき)は、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる、高安山の山頂部にあったとされる日本の古代山城。
概要
『日本書紀』に、「大和国の高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」と、記載された城である。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、倭(日本)の防衛のため、対馬~畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。古代山城の高安城は、667年(天智天皇6年)、金田城・屋嶋城とともに築かれた。また、高安城は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった。
高安城が築かれた標高487メートルの高安山は、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する。山の南の大阪湾に注ぐ大和川は、奈良盆地を遡り、支流の飛鳥川は宮都の飛鳥京に至る。
山頂周辺は、大阪平野側の西斜面は急峻で、東斜面は標高400メートルほどの多数の尾根が谷を抱える地形である。また、山頂部の眺望は良好で、大阪平野・明石海峡ほかの大阪湾と、飛鳥京ほかの奈良盆地が視野に入る。
高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。1978年(昭和53年)、「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見し、一躍注目される存在となる。発見された礎石建物跡6棟のうちの、2号と3号の礎石建物の発掘調査は、8世紀前期の建物と推定される。その後も、大阪府や奈良県が推定地内で発掘調査を実施しているが、明確な遺構は確認されていない。また、高安城の外周城壁ラインの推定範囲を最初に提示した関野貞の他、城の範囲に諸学説があり、古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない。
2007年、神籠石を有する自治体が光市(石城山神籠石)に参集し、「第一回 神籠石サミット」が開催された。「第4回 神籠石サミット」が開催された後、他の古代山城を有する自治体が加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている。
山頂の西側の大阪管区気象台 高安山気象レーダー観測所は、四国・中国・紀伊半島など、半径約300キロメートルの気象を観測する。
関連の歴史
『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
- 天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。
- 天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。
- 天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。
- 天智天皇6年(667年):大和国の高安城・讃岐国山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。
『日本書紀』と『続日本紀』に記載された、高安城の関連記事は下記の通り。
- 天智天皇8年(669年)8月:天皇 高安嶺に登り、城の修理を試みるが、人民の疲労を思いやり中止す。
- 天智天皇9年(670年)2月:高安城を修理し、穀と塩を積み入れる。
- 天武天皇元年(672年)7月:壬申の乱の際、高安城の近江朝廷軍は、大海人皇子軍の来襲により、税倉を焼き払って逃亡する。
- 天武天皇4年(676年)2月:天皇 高安城に行幸す。
- 持統天皇3年(689年)10月:天皇 高安城に行幸す。
- 文武天皇2年(698年)8月:高安城を修理する。
- 文武天皇3年(698年)9月:高安城を修理する。
- 大宝元年(701年)8月:高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国と河内国の二国に移し貯える。
- 和銅5年(712年)正月:河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大和国の春日烽を置き、もって平城(なら)に通せしむ。
- 和銅5年(712年)8月:天皇 高安城へ行幸す。
調査・研究
遺構に関する内容は、概要に記述の通り。
- 1922年(大正11年)、関野貞が三郷町を中心とする想定ラインを発表したが、考古学的調査は進まなかった。また、1999年(平成11年)、高安山の西斜面の誤認遺構が新聞で報道され話題となった。
- 河内国と大和国の国境に位置する高安城は、倭国最後の防衛線と言われることが多い。しかし倭京の逃げ込み城ならば、飛鳥東方の細川山や多武峰の方がふさわしい。高安城の立地は畿内全体で捉えるべきで、両国から動員して築城する適地は高安山しかなかったといえる。
- 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である。
- 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある高安城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた。
参考文献
- 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10712-8。
- 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年。ISBN 978-4-642-08303-4。
- 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-05840-7。
- 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
- 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(特集 西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
- 小島憲之 他 項注・訳 『日本書紀』、小学館、1998年。ISBN 4-09-658004-X。
- 青木和夫 他 項注 『続日本紀 新日本古典文学大系 12』、岩波書店、1989年。ISBN 4-00-240012-3。