名称(よみ) | 菩提山城(ぼだいさんじょう) |
通称・別名 | 菩提山寺城、岩手山城、(竹中氏陣屋、竹中陣屋、岩手陣屋、岩手城) |
所在地 | 岐阜県不破郡垂井町岩手 |
天気情報 |
04/07(月) 降水確率:10% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 垂井町観光協会[電話] |
分類・構造 | 山城、(陣屋) |
築城主 | 竹中重元、竹中重門(陣屋) |
築城年 | 永禄2年(1559)、天正16年(1588)(陣屋) |
主な城主 | 竹中氏 |
廃城年 |
慶長5年(1600) |
遺構 | 曲輪、腰曲輪、土塁、堀切、竪堀 |
指定文化財 | 県史跡(竹中氏陣屋跡) |
再建建造物 | 石碑、説明板 |
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菩提山城(ぼだいさんじょう)は、岐阜県不破郡垂井町の菩提山にあった日本の城(山城)。竹中重元が岩手弾正を滅ぼした後、竹中氏の居城として新たに築城したものとされ、麓に竹中氏陣屋が築かれるまで使用された。西美濃では最大級の山城である[1][2]。
概要
伊吹山系の東端にある菩提山(402メートル)山頂に築かれた東西150メートル・南北300メートルの山城で、竹中重元が同地の豪族であった岩手氏を滅ぼして新たに築城した。以後、重元・重治・重門の3代にわたり使用され、重門が麓の竹中氏陣屋に居を移したことで廃城となった。2024年に行われた発掘調査により建物礎石が発見され、単なる砦ではなく居館として用いられた屋敷が山上に存在したことが確認された。
歴史
- 1558年(永禄元年) - 竹中重元が岩手弾正を滅ぼし、6千貫の領主となる。
- 1559年(永禄2年) - 竹中重元が菩提山に菩提山城を築く。
- 1560年(永禄3年) - 重元が病没し、子の重治(半兵衛)が家督を継ぎ城主となる。
- 1565年(永禄7年) - 重治が16人の手勢で稲葉山城(岐阜城)を落とす。重治は、斎藤氏の滅亡後は織田信長・豊臣秀吉に仕える。
- 1579年(天正7年) - 重治が播磨三木城攻め(三木合戦)の陣中にて病没し、子の重門が家督を継ぎ城主となる。
- 1600年(慶長5年) - 重門は関ヶ原の戦いにて東軍につき、徳川家康に菩提山城を提供する。戦後、麓の竹中氏陣屋に居を移し、菩提山城は廃城となる。
アクセス
公共交通機関
- JR東海 東海道本線 垂井駅で下車。→垂井町巡回バス(垂井・岩手線)「菩提」で下車。→菩提山の麓まで徒歩数分。
車
名神高速道路
- 関ヶ原ICから30分
東海環状自動車道
- 大垣西ICから25分
2025/04/06 11:53 中務少輔RedKing
菩提山城:半兵衛公グリーンロード山城登城には趣を欠きますが、お急ぎ登頂やお気楽なリア攻め用です。垂井町が平成の頃から永年掛けて整備した林道明神線の愛称が発表されました。明神湖から菩提山そして、紗那林道(池田山~関ケ原町大高)を経由して揖斐川町春日地区へ通じます。岩手陣屋から北へ岩手川を北上し明神湖を経て一般県道257号川合垂井線の通行止めから左折して舗装された林道をひたすら上ります。2~3kmの道のりですが、登城道とは異なり、視界が開けずに対向車の走行音も近づかないと聞こえません。また高圧線や伊吹山のような目標も見当たりません。切り出した立木の集積場でしょうか未舗装の広場があって、作業されていなければ何...
2024/12/30 16:18 みずきあかり 美濃守
菩提山城:発掘調査報告会もあったということで、久しぶりに訪問しました。ハイキング用に登山道も整備されており、城郭の整備もしっかりされていて感動しました。あとは、どこのお城もそうだけど、登山口に駐車場を3台分は用意してほしいところです。
来月度の城主争い戦況
1位 悠凛釆女正さん 40回
2位 早雲さん 19回
3位 ともさん 6回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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