立地
須玉川右岸の段丘上に立地する。西川と鯨沢にはさまれた尾根の先端に築かれた城郭を大城(古城)と称し、川をはさんで北にある張り出した尾根上の一画を北城、沢の南尾根上の一画を南城と呼ぶ。東から南方面にかけて眺望がよく、北東には
獅子吼城(須玉町)、南には大豆生田砦(同町)と七里岩台地上が見渡せる。標高は北城が606m、大城(古城)が580m、南城611mである。
東側山裾には佐久往還が通り、城跡と須玉川の間に若神子の街か形成されている。城跡との比高は約80mである。若神子には「御所村」・「御所村北」・「御所前」の地名があり居館の存在が推測され、北に位置する穴平には市にかかわる二日市場の地名が残る。街の小字には「上宿」・「中町」・「下宿」などの宿地名がみられ上本戸と呼ばれる地には土塁が確認できる。
歴史
若神子は佐久往還と「棒道」(大門嶺口)が通る逸見筋の交通の要衝で、「甲斐国志」四七、「若神子」の項は「四達要枢今モ此筋ノ都会ナリ」と表現している。戦国期には天文11年(1543)の武田信玄の諏訪侵攻に際して「若神子御陳所」が取り立てられており、以後武田氏の信濃攻略への道筋にはたびたび若神子が利用されている(「甲陽日記」)。
同地は駐屯地・兵站基地として機能していたものと思われる。築城に関わる直接的な史料はみられないが、「国志」は新羅三郎義光の城跡との伝承を載せ、「太郎信義ノ時二及ンデ東鑑二逸見山ノ館ト記スルモ居城ノ趣ニ聞エタリ、谷戸ハ要害ノ城壁ニテ居館ハ此処ナラン」と、治承4年(1180)平氏追討に甲斐源氏が結集した「逸見山」に触れ、
谷戸城(北巨摩郡大泉村)を要害とし当城を居館に比定している。天正10年(1582)の天正壬午の戦いでは北条氏直の本陣として当城は取り立てられ、「国志」には「天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居エシ処ナリ」、「武徳編年集成」には八月七日に「氏直方兵ヲ収メ若神子ニ張翼ス」と記載される。
調査等
「国志」は三箇所の旧塁と広い郭と土塁・堀といった遺構を伝え、天正壬午の戦いに際して北条氏によって改修されたと推定している。
北城は、東西100m、南北400mの規模があり、北端に台地を横切るように空堀と土塁が設けられる。西側には腰郭と土塁、南端には土塁と虎口があり遺構のみられない東側を道が通っている。土塁等に囲まれた内部は、何段かの平坦地が続く広大な郭となっている。発掘調査が行われた空堀北側からは南北方向の溝と柵列が確認されている。
大城(古城)は、明治時代に壁土の採取場所となったため遺構の残りは悪く、南半部に台地を切断する空堀や土塁状の高まり、腰郭などが確認されていた。公園整備にともない発掘調査が行われ、中央部分で薬研堀、東側では四角に並ぶ柱穴が確認された。中世の遺物としてはかわらけが出土している。
南城は、土橋を有する空堀によって区画された二つの郭が山頂部にあったとされるが、1982年に土採取によって消滅した。現状では、北東から東側にかけて腰郭・竪堀がみられる。土採取場所から常滑焼甕破片や茶臼升などが出土している。
若神子城の3個所の遺構はそれぞれに特徴をもっており、北条軍の本陣や蜂火台といった見方がなされているが、その判断は難しい。
当城は交通の要衝である若神子の防衛と抑えの城で若神子の駐屯地としての性格から宿城的な側面をもっていた可能性もある。さらに軍事的情報伝達の拠点、甲斐加し信濃への中継地に、位置する要所等々いくつかの磯能を有していたとみられ、最終的には「国志」に、「天正壬午ノ時北条氏旧塁二拠テ陣取増築セシコトナルベシ」と記されるように、天正壬午の戦いにおける北条氏の本陣として経営されたと思われる。
現状
大城(古城)は、市の史跡に指定され、現在は一部がふるさと公園として整備されている。北城は山林、南城は土砂採取により消滅している。
アクセス
・JR中央本線韮崎駅下車、山交タウンコーチ増富温泉郷線「須玉郵便局前」下車、徒歩約10分
情報提供:北杜市教育委員会