立地
塩川左岸の独立峰に立地し、茅ヶ岳山麓から塩川沿いを北上する穂坂路(小尾街道)の要衝に位置している。塩川に面した西側山裾には根古屋集落が形成され、周辺には「駒ヶ入」「堀」「西の御所」等の地名がみられる。本城跡から南西方向に
中尾城(須玉町)、
若神子城(同町)、北に大渡の烽火台(同町)を望むことができる。標高は793m、根古屋集落との比高は150mである。
歴史
「甲陽日記」永正6年(1509)の条に、「十月廿三日、小尾弥十郎江草城ヲ乗取」とみえるのが初見で、「江草城」とは当城のことを指していると思われる。
小尾弥十郎がいかなる人物か不明であるが、小尾郷は信州峠近くの甲信国境地域にあり、戦国期には小尾氏を中心とした小尾党が信州峠川上口の警固についていたとされる。「甲陽日記」の記事は小尾氏の一族であった弥十郎が、信州方に与して武田方の江草城を乗取ったとも考えられる。
戦国期以前の当城に関して「甲斐国志」四七、「獅子吼ノ城墟」の項は、応永年間(1394~1482)に武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したことを伝え、嘉永6年(1853)の「巨摩郡江草村諸色明細帳」ではそれ以前の城主を志田小太郎実高とし、「寺記」三〇の見性寺(須玉町江草)の由緒には元応2年(1320)に信田小左衛門実正と子息小太郎実高が「獅子頭ノ城」で討死したことが記される。「獅子頭ノ城」とは当城のことであろう。当城主とされる江草兵庫助信泰は二十五歳で没しており、今井氏がその跡を継いでいる。
今井氏は、逸見殿あるいは浦殿とも呼ばれ、享禄4年(1531)今井信元の代に有力国人層の栗原氏と大井氏らとともに謀反を起こし、諏訪氏と結託し武田信虎に反旗を翻した。この反乱で今井信元は享禄5年(天文元年)に「浦ノ城」にこもったが信虎に降伏し、これにより甲斐国内は平定されるところとなった(「勝山記」ほか)。
信元の拠った「浦ノ城」とは一般的に須玉町小倉の
中尾城のこととされるが、当城とする見方もある。天正10年(1582)の天正壬午の戦いでは、信州峠を越えて侵攻してきた北条勢が街道の抑えとして「江草小屋」に拠ったが、徳川方の服部半蔵正成の伊賀組や武田遺臣の津金衆らがこれを攻めて乗っ取っている(「武徳編年集成」ほか)。「国志」は天正壬午の戦いに関する諸記録にみられる「江草小屋」を当城のこととしており定説となっている。
調査等
「国志」は遺構に関しては詳しくないが、「甲斐国古城跡誌」では「巨摩郡江草村ノ
内城跡壱ヶ所、但
獅子ヶ城ト申伝候、壱町四方ト相見へ候、四方ニ土手堀ノ形有之候」と、およそ100m四方の規模と土塁や堀の存在を伝えている。遺構は円錐形を呈する
城山山頂の主郭を中心に南西方向と北東方向の山裾にかけてみられ、何段かの腰郭を配し築かれている。
山頂の主郭部分はほぼ東西20m、南北30mの不整な楕円形の平坦地となっており、東側には土塁があり北東側は虎口状に開口した石積みによる平場が続く。主郭の一段下には帯郭が巡っている。西南側の山腹には削平された腰郭が五段程あり、北東側山腹には石積みの施された腰郭が四段程造られ、その北方には何段かの腰郭が山裾にかけてみられる。
東側山腹から東方へ延びる尾根の付け根には、石積みによって区画された門跡の山川は空堀状の窪地(横堀)が北側の腰郭にかけて続く。尾根上には二つの平坦地があり、周囲には堀切や竪堀がみられる。山頂の主郭至る道筋は山腹を北側から東へ巡り門跡を抜けて横堀を通り、北東側山腹の腰郭を経由している。随所にみられる石積みは天正壬午の戦いの折の改修によるものであろう。
現状
市の史跡に指定されており、地元住民により整備・管理されている。
アクセス
・JR中央本線韮崎駅下車、山交タウンコーチ増富温泉郷線「平」下車、徒歩約20分
情報提供:北杜市教育委員会