名称(よみ) | 造海城(つくろうみじょう) |
通称・別名 | 百首城 |
所在地 | 千葉県富津市竹岡字城山4492-1他 |
天気情報 |
04/05(土) 降水確率:50% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
分類・構造 | 連郭式山城 |
築城主 | 真里谷信興 |
築城年 | 寛正2年(1461) |
主な改修者 | 正木氏 |
主な城主 | 真里谷武田氏、正木氏 |
廃城年 |
天正18年(1590) |
遺構 | 曲輪、空堀、石垣、土塁、井戸、堀切 |
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造海城(つくろうみじょう)は、千葉県富津市竹岡にあった日本の城。
概要
造海城は、真里谷氏によって築かれた山城。この通説に対し、黒田基樹は足利成氏が真里谷一族の祖である上総武田氏の初代武田信長に与えた「上総国造細郷」を造海郷の誤りとみる立場から、造海城が武田信長すなわち上総武田氏の最初の本拠で、真里谷城や庁南城への進出は次世代以降とする説を唱えている(黒田は造海に真里谷や庁南と異なる系統の上総武田氏の嫡流がいた可能性も指摘している)[1]。
里見氏の支配下に入った天文6年(1537年)以降、里見氏の対北条氏最前線として重要な役割を果たした。
歴史・沿革
- 寛正2年(1461年)、真里谷信興(あるいは武田信長)により築城された。
- 天文3年(1534年)、真里谷信隆と信応の間に家督争いが起こると、信隆の子信政が拠った。
- 天文6年(1537年)、信応に付いた里見義堯に攻められ開城し、里見氏方の正木氏が入った。
- 天正18年(1590年)、小田原征伐の後、里見氏が安房一国に減封され廃城となった。
- 江戸時代末期、城内の北端及び南西端二箇所に台場が設けられた。
構造
浦賀水道に面した南北に伸びる独立性の高い丘陵上に占地し、西面を浦賀水道、北面を白狐川に守られた天然の要害である。
郭は尾根上に四郭を設け、西側に伸びる支尾根上及谷の上部に郭が重ねられている。東側の地形は西側に比べて起伏に乏しいが、三柱神社脇の尾根筋及び外部へと繋がる尾根筋に普請が認められる。後者は灯篭坂大師から伸びる大手道を、後者は延命寺・三柱神社にあったと考えられている居館をそれぞれ守る目的で設けられたものと考えられる。この他に、大手尾根の付け根付近に木出根と呼ばれる場所があり、腰郭が設けられている。
考古資料
遺構
山上の遺構はほぼ完全に残っており、空堀や石垣、土塁、及び井戸が残る。ただし、後に台場が設けられたため、幕末期の遺構も混在する。
2025/03/21 07:41 おかっぴき
造海城:燈籠坂太師裏から登ろうと行きましたが、道が整備されていないのと私有地となっているので通行止めになっていたので断念しました。
2024/12/23 08:43 フー甲斐守
トイレ:観光協会が関与したトイレが2つ(水洗、男女共用)が設置されていました。管理者は居ないとの事で今後綺麗さはどうなるかわかりませんが、現時点では綺麗でした
来月度の城主争い戦況
1位 安房守かんむり座T星さん 20回
2位 くほんさん 12回
3位 あら内蔵頭いいわさん 3回
竹岡砲台跡(遺構・復元物)
石丁場跡らしき断崖(遺構・復元物)
金谷城ニノ郭四脚門虎口(遺構・復元物)
砲台跡(遺構・復元物)
金谷城本郭北側小郭(遺構・復元物)
大手虎口跡(遺構・復元物)
岩盤横堀(遺構・復元物)
岩盤堀切(遺構・復元物)
岩盤土塁(南西尾根)(遺構・復元物)
切り通しと水堀(遺構・復元物)
竪堀(遺構・復元物)
溜池、頂上案内板(碑・説明板)
天神山城(周辺城郭)
二又要害城(周辺城郭)
大久保城山城(周辺城郭)
金谷砲台(周辺城郭)
天羽城(周辺城郭)
金谷城(周辺城郭)
栄寿司(御城印)
鋸山美術館(御城印)
竹岡清藍荘(御城印)
竹岡マリーナ レストハウス(御城印)
トイレ(トイレ)
駐車スペース(駐車場)
TJKリゾート金谷城ロビー(関連施設)
城跡への入口(その他)
「大師口」バス停(その他)
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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