関城(せきじょう)

城郭基本情報

名称(よみ) 関城(せきじょう)
所在地 茨城県筑西市関舘
天気情報

05/11(土) 降水確率:0%
26℃[+1]13℃[+6] 詳細

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問い合わせ 筑西市生涯学習課[電話
分類・構造 平城
築城主 関(結城)朝泰
築城年 建久3年(1192)
主な城主 関氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、坑道跡
指定文化財 国史跡(関城跡)
再建建造物 石碑、説明板
筑西市の南端にあり、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、北部は台地続きで数重の土塁と東から西側の大宝沼に通じる堀割をめぐらせ、天然の要害地とした城郭。

延元元年(1336)後醍醐天皇が神器を奉じて吉野に入ってから朝廷は二つに分かれ相争うこととなり、吉野朝を南朝、京都朝を北朝として南北朝時代の動乱が幕開けした。

延元3年(1338)南朝方は奥羽地方の兵力を結集して再興を計ろうと、義良(よしなが)親王を奉じ、その補佐役の北畠親房らとともに伊勢を出航したが、途中暴風に遭い四散し、親王の船は伊勢に吹き戻され、親房の船は常陸東条浦に漂着した。

いくつかの城を経て小田城に入った親房のもとに、関宗祐父子も馳せて北朝軍と戦った。この時、後醍醐天皇の崩御と義良親王の即位を知り、親房はここで神皇正統記などを執筆した。

その後、小田城は高師冬軍に攻められ城主小田治久が北朝軍に降ったために、親房は関城に入り、関宗祐父子は大宝城主下妻政泰とともに北朝軍と戦った。

関城を巡る攻防戦の中で親房は神皇正統記を完成させたが、四方に敵を受けた関宗祐は、ここで親房を重囲の中から吉野に脱出させた。

興国4年(1343)11月11日、関城は大宝城とともについに落城し、宗祐父子も城と運命を共にしたと伝えられる。

関城跡には、関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、墓の南側には「関城之碑」(明治3年建立)もある。小山弘の文になるこの碑は、宗祐と親房の偉業を讃えている。

また、この墓前域においては、地域の人たちによって落城の日を命日として墓前祭が行われている。ほかに坑道跡や土塁、堀も残され往時を偲ぶことができる。

情報提供:筑西市教育委員会文化課



城郭口コミ


2024/02/08 20:06RED副将軍
関城:関東六城のひとつに数えられる南朝方の拠点🏯⁡オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎⁡1192年に関朝泰により築城。関氏は、承久の乱で活躍し検非違使となった有力鎌倉御家人である結城朝広の四男の結城朝泰が常陸国真壁郡関荘を領して関氏を称したのが始まりとされ、関城を築いて居城としました。南北朝時代の城主は関宗祐で、北畠親房に呼応して南朝方として挙兵。関城は真壁城や大宝城とともに関東六城のひとつとして南朝方の重要拠点として機能しました。1341年に北畠親房は開城間近の小田城から関城へ移ったことにより、1343年に北朝方の足利尊氏の家臣である高師冬が攻め寄せ関城と大宝城は同日に落城したとされます。⁡見所かつては大宝...

2023/04/24 15:37あきくん
関城:関城通り沿いにあります。デイリーヤマザキ関舘関城店を目印に行くとわかりやすいです。

城郭攻略情報


2023/07/23 22:16
あざらし肥前守
筑西市関舘、グリーンライン・関城通り交差点。(❜18・5攻略)
2021/11/05 11:08
副将軍こうちゃん播守
関東鉄道常総線「大宝」→「騰波ノ江」駅間で攻略!!
2019/10/26 18:11
ほよよ常陸介
r294から西側に一本入ったグリーンラインからなら攻略可能です。グリーンラインの道沿いにあるセブンイレブンからは無理でした。セブンイレブンから南に行ったら攻略できました。
2017/10/29 13:05
ぴか権大納言
宇都宮から南下、1.6kmで攻略。
2017/01/21 12:09
信濃守うけぐち
常総線車内からだと、騰波ノ江駅前後で攻略可能でした!(GPS)

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 puru下総守堀戸道光さん 22

 2位 ファン太さん 14

 3位 Argus4w21sさん 12

関城の周辺スポット情報

 土塁、崖跡(遺構・復元物)

 土塁、堀跡(遺構・復元物)

 案内図(碑・説明板)

 関城跡石碑(碑・説明板)

 説明板・案内図(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 守永親王別宴之地(碑・説明板)

 井上城説明板(碑・説明板)

 八幡神社(寺社・史跡)

 簡易トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 坑道跡(その他)

 

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