戦国世論調査

清正と行長の配置は正しかったか?(2015/05/04)


加藤清正と小西行長の錦絵

豊臣秀吉による肥後を南北に分けた加藤清正と小西行長への知行割り。当初から反目しあい朝鮮の役で激しく対立、関ヶ原でも東西に分かれた両者のこの配置は正しかったか?

[投票実施期間]2015年05月04日~2015年05月26日


1.ライバル心を煽ることで相互の武将としての資質を高めた最良の配置である。

12%

2.結果的に対立することとなったが、当時の情勢を考えれば無難な措置である。

21%

3.統治の難しい肥後を治めるためには、人材不足の中ではやむを得なかった。

13%

4.両者の性格を考えれば、秀吉生存中に何らかの対処をしておくべきだった。

34%

5.対立することは最初から目に見えており、秀吉の失策と言わざるを得ない。

16%

6.その他

1%
「ニッポン城めぐり」利用者のコメント

半日皇帝下野守(2を選択)
統治の始めは両者協力してた面もあるみたいだし。

にゃにゃーにょ豊後守(2を選択)
秀吉死後の事まで考えて配置するなんて無理でしょう。両武将共、肥後をしっかり統治したので無問題。

かるは内匠頭(4を選択)
最初は険悪でなかった説もある為失策とまでは思えないが、天草一揆の辺りでフォローしていれば二人の結末も変わっていたかもしれない。ただ、この二人の全てが対だった立ち位置は単純に興味深くもある。

天羽槌雄神(5を選択)
小西と加藤の対立もそうだが、家康が危険だと認知せずに配置したのも問題があると思う。家康を危険視した配置にしていれば大坂の陣もだいぶ変わったのではと思う(ー ー;)

ぐっさん(4を選択)
自らスカウトして目をかけた小西と子供の頃から見てきた清正。もうちょっと何とかならなかったのかと思うけど、子供生まれ弟死んで子供死んでまた生まれでそれどころじゃなかったのか…

GINTOKI(2を選択)
この時、小西行長も加藤清正もまだ、若い為、経験不足であった為肥後半国の統治としたと思う!黒田官兵衛辺りなら適任か?

きらら左兵衛督(6を選択)
対立で双方の力を無駄に使わせることが目的だったかも。

ジョウ陸奥守(2を選択)
人材(身内)を考えると…

大久保遠江守常源(4を選択)
熊本城が、後世に残っただけで、良しとしておきましょう。

いの37紀伊守虎之助(4を選択)
どう手を打っても、恐らく無駄に終わったでしょうが、崩壊の速度は遅くできたかも。自分の才覚で作り上げた組織の宿命でしょう。気遣いで出世した人が、派閥争いに気が回らなくなったらお終いです。

ひで(5を選択)
お互いのライバル心を煽ろうとしたのかもしれないけど、結局は失敗だったと思います。

京楽秋水佐渡守(5を選択)
各々の能力を最大限引き出し利用すると言うことには優れていたが制約・規制・統制が出来なかった為に豊臣の崩壊を招いたとも言える。

野呂利左衛門督休三(2を選択)
肥後入部以前から対立していたら明らかな失策だろう。特に顕著になったのは朝鮮出兵からであるが、二人の対立が戦役を破綻させたわけではない。まして対立関係は隣り合っていない者同士でも生じているのだから。

太政大臣dougen(4を選択)
清正を熊本に置かず、家康の抑えに配置していたら、どうだったのかな?

★ギター★(3を選択)
豊臣政権の人材不足は明らかで、秀吉は名前を与えまくって、臣下を増やそうとしたが、徒労に終わった。

鳥羽釆女佑(6を選択)
領地が接していたため対立したんだと思ってた

関羽一騎当千信長(3を選択)
結果的には秀吉が亡くなったらまとめる人材がいなかったのでバラバラになるのはやもうえなかったのでは
強いて言うなら太閤存命中に身内で秀頼を補佐する人材を育てれなかったのが失策かな

津軽宮内大輔藤原信建朝臣(1を選択)
豊臣家の御為にと、この二人が団結していたら、もう少し豊臣家、加藤家、小西家のその後の行く末も変わっていた気がします。

田部朝臣土持安房守(6を選択)
大陸への出兵を考えた時、若手に大兵力を預ける布石としては正しい。吉継を行長のポジションも有りだったにも思う。

勘解由次官がぼ(5を選択)
ような気がする

常陸介iff(6を選択)
あえてそのようにしたとも見えます。

黒崎城(5を選択)
佐々成政でよかった

聖戦士尾張守ヒロフミ【✤】(1を選択)
秀吉もお互いのライバル心を煽ることを目的とした配置らしいので

本多平八郎忠勝(1を選択)
武の清正と、商人だった知の行長。石田三成という存在が二人の仲をより悪化させてしまったが、ライバル関係なくして肥前の早期統治に不可欠だった。

ソバッソ80.0(6を選択)
そない大事になってないから、結局良かったんじゃない?
良か悪かで選べと言われたら、どっちでもないよね。
でも熊本城があんなに立派になった一因の一つかもね。

隼人正のぶちゃん(1を選択)
結果として、対立したが、太閤生存時には効果を出していた!(^^)/

刑部大輔長門喫茶(3を選択)
お互いの成長のためにも、と思った人事とは思うが、結果は悪かった。

陣屋守(5を選択)
何か狙いがあったと見る。当事者への関心だけではなく、妻子などが関わるのかな?
そんな気がする。

今川治部大輔義元(1を選択)
秀吉子飼の武将を納めるのに大変な肥後に納めるのは最適であり二人の競争心を煽ることは必要であったと思う。
関ヶ原での対立はまた違う話だと思う。

太政大臣 大神信貫(5を選択)
朝鮮の役でも対立したため、失敗だったと思う。関ヶ原の合戦の時も肥後国も戦場となったため、秀吉にしてみれば失敗だっただろう。(世を去っていたけど)

明石根室守則実(2を選択)
領地が接してようが接してまいが、結果的には反目するような間柄。それを抜きにしても肥後統治には致し方なかったはず。

駿河守アパテ(5を選択)
せめて、統治者を、キリシタンで固めるか、反キリシタンで固めるか、どっちかに寄せたほうがよかったのでは?

誠之亮中務少輔(5を選択)
う~ん…
もはや好き嫌いで選んでしまう。

飲んだくれ大和守ジョニィ(5を選択)
自分の目の黒いうちは…と思っていたのでは?

我こそは眞田左衛門佐幸村(6を選択)
誰をどこに置こうが、さしたる違いは無いと思う。

まさ宮内卿猛虎(5を選択)
当日の勢力から、同等の力案配と思えます。両者は、知行国を離すべきだったと思われる。

互いを競わせ力を削ぐ事は、秀吉は考えていなかったでしょう。南北配置は、互いが協力して欲しかったのかも?

田南部弾正忠惟長(6を選択)
朝鮮進出の先鋒になる為だから有能な二人を最前線に配置するのは至極当然。

左近将監下総守(1を選択)
選択肢の1と2を足したのが自分の答えかな。まあ、秀吉も、二人が非和解的に対立するとまでは想像できなかったんでしょうね。

Nabeppu左馬頭(4を選択)
天草での方針や朝鮮出兵での様子を見ても対立構造は明らか。後々関ヶ原の東西陣営が形成される引き金になる事を考えると、秀吉は生前に何らかの縛りを決めておく等の手を打っておくべきではないかと考えます。

刑部少輔冬将軍(4を選択)
対立してもしなくても、あまり結果は変わらないようにも思えますが。。

出羽藤光(2を選択)
誰が入っても同じかな

タタキ武蔵守(4を選択)
どっちかを転封(清正については文禄の役のペナルティがついた段階で)するぐらいはできたんじゃなかろうか?

かげとら(4を選択)
火種は早めに対処して今後の憂いを断つべきだったのではないかと思っています。

征夷大将軍 速水右近(5を選択)
戦上手の人たらしも、自分の天下になった途端に官兵衛や六大老の意見も聞かず、独断的政治に走り失敗失態は数え上げたらキリがない。滅亡した理由のほんの一部に過ぎない。

日向夏隠岐守(2を選択)
領地が接したことで気性の強い清正と対立したのであって、朝鮮出兵を念頭に入れていた当時としては致し方ない点があったとは思う。後の確執は当人同士の問題だと思う。

【隠者】史学会帰新参(2を選択)
両者の肥後入封時は険悪の仲であったわけではなく、結果論である。険悪になった後は朝鮮出兵もありどちらかの国替えも難しいと思う。

ウツーノ豊後守白起廉頗王翦(2を選択)
統治の難しいと言われた西国は武断派清正と文治派行長とで柔軟な措置だったと思いますが…

マウリア左近衛少将(5を選択)
加藤清正を抑えはわかるけど、小西はそこ?と思う

清正に1国与えていればかなとも

野口相模守(5を選択)
秀吉は大名の配置が雑。

氏家下野守時蕎麦(6を選択)
対立させることで一定以上の力を蓄えることを抑える目的があったのではないか


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