戦国世論調査

浅井長政の決断、あなたの評価は?(2015/03/27)


千畳敷曲輪(小谷城)

元亀元年(1570)、朝倉氏救援のために義兄弟でもある織田信長に攻め掛かった浅井長政。あなたはこの長政の決断をどう考える?

[投票実施期間]2015年03月27日~2015年04月16日


1.朝倉家との同盟関係の歴史を考えるとやむを得なかった。

10%

2.立場的に朝倉と織田の和睦を何としても斡旋すべきだった。

13%

3.婚姻関係を結びながら織田家を裏切ったことは理解できない。

3%

4.決断は父久政の影響が大きく、長政の本意ではなかった。

32%

5.信長の勢いには逆らわず、朝倉は見殺しにすべきだった。

12%

6.裏切るのであれば、確実に信長を仕留めるべきだった。

27%

7.その他

1%
「ニッポン城めぐり」利用者のコメント

アンパンマン(4を選択)
若い長政は信長の力と将来性を理解していた。しかし家督は譲られていても父の影響力がまだ大きかった。

伊勢守ノレパン三世(6を選択)
やるからには...、だと思います。

今川治部大輔義元(6を選択)
やはり戦国武将なので
裏切りったことになんにも罪はないと思う。
しかし、信長を確実に葬るべきだった。

結城近江守秀康(7を選択)
将軍足利義昭の勅命なら仕方がないが信長の裏切りは許さない考えとこれ以後性格が変わってしまったことが不幸でした。

ぱお能登守コロナとヒューガ(6を選択)
せっかく北の朝倉と挟み撃ちにできる局面を見越して動いたのだから、そこで信長を仕留められなかったのは戦国武将として失格。

❖黒髭右衛門督道楽斎❖(7を選択)
己の目的の為にあらゆる手段を使い利用する信長の価値観との違いは、戦国の一地方大名としての浅井家、長政自身にも克服できず、当然の帰結である。

野呂利左衛門督休三(6を選択)
信長が朝倉を攻め滅ぼすことは浅井にとって進出先がなくなるということでもあり、座視できなかったのでは。秘匿性を優先したか、情報の入手が遅れたため、あのような結果になったのでは思う。

津軽宮内大輔藤原信建朝臣(6を選択)
もし、信長を討ち取っていれば、そして、他の反信長勢力との連携がもっとうまくいっていれば、長政の天下も夢ではなかったと思います。

【無】万年同心武蔵守三四六(6を選択)
お市の方の小豆袋がなければ、歴史が変わっていたかも?

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