尼子晴久の新宮党粛清の真相は?(2019/11/21)
新宮党館跡(写真:太政大臣やつたさん)
天文23年(1554)、尼子晴久は家中の有力な戦闘集団であった新宮党を粛清した。
この粛清には様々な理由が考えられるが、その中でも最も真相に近いと思うのは!?
[投票実施期間]2019年11月21日~2019年12月17日
1.毛利元就が仕組んだ謀略であり、その謀略がなければ晴久と新宮党との関係は良好だった。 |
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2.主家を凌ぐ力を持った新宮党が乗っ取りを画策したため、晴久が先手を打って粛清した。 |
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3.新宮党の傲慢な振る舞いは家中から疎まれており、混乱を鎮めるためやむを得ず実行した。 |
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4.新宮党に反抗の意思は無かったが、その増長を危惧した晴久が当主権力の集中を図った。 |
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5.新宮党を常々疎ましく感じていた晴久が、毛利元就の仕掛けた謀略にあえて便乗した。 |
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6.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
ゴンタ肥前守.B(1を選択)
後の歴史を考えると、これかなと
鈴城左馬頭行脚(5を選択)
⑤〜の④が狙いかと。
晴久の独裁に二重権力は必要ない。
例え親戚縁者でも家臣は家臣なり。
mootze(1を選択)
この時代は策略が、はまると勝利が、てにはいる。
安芸守 あきら(1を選択)
遠い先祖でもあり身内のゴタゴタで没落したと思いたくない。
ウツーノ越前守白起廉頗王翦(4を選択)
神宮党が増長してたとは思うが敵対する毛利に内通して尼子を滅ぼすとかは無いかと。
ただ当主晴久からしたら目の上のたんこぶ的な存在やから邪魔だったのかと。
【G6】OROKA参議(5を選択)
元就からすれば、つけ入る隙だったかと…
五十公野大学允通吉(4を選択)
走狗煮らる
本田左兵衛尉家吉(4を選択)
尼子王国、家臣団の権威を過信し過ぎたのだと思う。忠臣の進言か?晴久公の叔父でもあり、義父の新宮党国久公を討った実行犯、尼子家忠臣本田豊前守家吉!いゃいゃ、おったまげじゃー!
☘️方喰左馬助四十郎(1を選択)
関係が良好なら無かったかと…疑心暗鬼を生ず…
相模守愛洲久忠(4を選択)
精鋭部隊新宮党の発言力が増したことで、宗家としてのコントロールに懸念が生じたのでは。
志摩守ニコちゃん(4を選択)
晴久が、元就の策略にはまり、粛清した!
霧島因幡守(1を選択)
そこまで深い意味は無いかと・・・・
蛾飛音(4を選択)
2.3.4の複合的要因だと思われる
家臣間での諍いも含めてね
奥山左衛門佐朝清(4を選択)
毛利の井上一族と違い、主家乗っ取りまでは考えていなかったと思う。
いずみ安房守(1を選択)
毛利の謀略はあったと思います。関係が良好であったかは微妙。
池田下総少掾煕政(1を選択)
新宮党の増長は、晴久自身も疎ましく思っていたと思う。そこを策略に長けた元就に利用されたのであり、新宮党自体に謀反の意思はなかったのでは。但し良好ではない。次当主時には内紛に発展したか。
兵庫允よっちゃん(4を選択)
配下の力が増長すると乗っ取られる不安が先走る事。取り巻きの配下は実権がなくなる事もあり讒言をした事で粛清した。
まさある甲斐守⛄(1を選択)
これが1番面白い。実際はわかりません。笑
瓶割権六長尾平三景虎(4を選択)
某が思う答えは1と4を掛け合わせたもので、毛利元就の謀略により新宮党を粛正したのは間違いないと思う
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