小堀新介屋敷
小堀新介屋敷([長浜城 周辺城郭])
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小堀新介屋敷の口コミ情報
2026年05月28日 I♡長浜釆女正佐吉。
全国546万人の小堀ファンのみなさんこんばんは!
お姉さんある日「小堀新介殿屋敷跡」にレッツらゴーしてきたよ。この日は推し先生による小堀正次(新介の事ね)の座学だったの。な、なんてタイムリー!
て訳で今日は、エリ限第35弾「豊臣兄弟を支えし功臣たちの足跡」のスポットに選出された「小堀新介殿屋敷跡」だよ、レッツ遺構♪
車はアル・プラザ長浜の駐車場に停めるといいわ(もちろん買い物して長浜市に貢献するのよっ!)。そこから徒歩5分程よ。屋敷跡のすぐ近くに公民館や総持寺はあるけど、集落の中だから駐車するのはちょっと気が引けたわ。ただ、総持寺は秀吉が120石寄進してたり、本能寺の変の後に幼い小早川秀秋が預けられていたりと豊臣家に所縁のあるお寺だから、お寺の駐車場に停めてお参りするのもいいわよ。牡丹が有名だし(HPもほぼ牡丹w)、春に再訪するのもいいわね。
エリ限スポットの攻略範囲が気になるけど、多分509号線か510号線から攻略できると思うわ。知らんけど。
ところで小堀正次てだぁれ?ズバリ言うわよ。
小堀遠州のお父さんよ。
え?そもそもその遠州て人をよく知らない?だと思ったわ。お姉さんもよ。1行で纏めちゃう。
遠州は作事や庭造りが得意な大名で、茶人でもあるわ。
で、そのお父さんが正次。この人1540年生まれで秀長と同い年(異説あり)。坂田郡小堀村の地侍出身で、浅井氏家臣だったの。正室(遠州のお母さんね)は磯野員昌の娘。前半生は出家したり還俗したりと、ちょっとフラフラしたみたい。で、なんだかんだあって(北近江の地侍に多い、浅井がヤバくなって織田方に寝返った口でしょ多分)、秀長の家臣となるの。その秀長家臣団の中でも重臣中の重臣で、奉行頭的存在だったの。秀長の家臣には藤堂高虎もいたんだけど、高虎が戦いに出て活躍する人なら、正次は戦いが終わって平和になった後に、検地をしたり民や寺社を治めたりする人。つまり、藤堂高虎が武断派筆頭なら小堀正次は文知派筆頭てとこね。
播磨、紀州、大和など、秀長の行く先々で出した、正次の安堵状や書状が残ってるの。大和なんて寺社が強すぎて、興福寺が守護的役割を果たしてたのよ。その興福寺の塔頭、多聞院の僧が書き残した「多聞院日記」には正次の事を「武家ハ只仏也 松永ナラハ一々ニ首ヲ可切事」と書いてる。「正次はんは仏の様なお人やなぁ、松永(久秀)なら首切られとるとこやで」と、正次を持ち上げて久秀をディスってるのが笑っちゃう。正次は、一筋縄ではいかない興福寺を上手く手懐けてたのかもしれないわね。
一方、秀長一周忌の法要の際には、席順を纏められない法隆寺(色々忖度して大変なのよ、きっと)に対して、席順を指示してその通りにするよう命じてる。そこでは正次、法要に文句付ける事は「儂に対しての事やったらエエけど、秀吉や秀保に失礼があったら許さへんで!」とキッチリ締め上げてる。仏の顔(飴)と鬼の顔(ムチ)を使い分ける正次、
かなりやり手のネゴシエーターやで!
秀吉政権で言うならば三成さんやで!
秀長亡き後は秀吉に仕えてたんだけど、秀吉も亡くなった後はどうやら徳川にすり寄っちゃったみたい。関ケ原合戦では東軍に属し、会津征伐に従軍、備中松山城主になったの。徳川の下でも検地や作事奉行として活躍し、家康や秀忠の信頼が厚かったそうよ。そして1604年、江戸へ下る途中、藤沢宿で亡くなったわ…。
そんな小堀正次(新介)の屋敷は、慶長7年(1602)の「江州坂田郡小堀村絵図」と題した古図に「小堀新介殿屋敷」として描いてあるの。南東には「馬かけばんば」「ばんば堀」、南西には「ばんば屋敷」などの地名があって、今でも地形はほぼ変わらず残ってるのよ。て事は、小堀町をぶら歩きしたら、慶長年間にタイムスリップ…気持ちは…できるかもっ!?
6/1からは「ながはま割第2弾」が始まるし、北近江中心の第35弾エリ限が楽しみですね♪









