立地
三重町の東南方、三重川と松尾川の合流点付近の大門瀬に真言宗醍醐派吉祥寺、弘安7(1287)年に開創したとされる天台宗広福寺跡があり、遺構群は南方にそびえる標高約276mの
城山山頂及び北麓の谷間に確認される。
松尾城の築かれた三重郷は古代より豊後国府内から日向国に通じる主要道があり、交通の要衝に位置し、山頂からは、北西に緒方、北東に府内、東に臼杵、野津方面を眺望でき、峻険な山容を示す。
現状
城山の中腹には、広福寺建立の際、守護神としたという山王宮(大同元年(806)、近江国日吉神社の分霊を勧進したと伝え、明治11年より
城山神社と改称される)がある。
遺構群はこの神社を境にして、山頂部分と山麓部分に確認される。山麓部は、山王宮直下の谷頭から開口部にかけての谷間全域にひろがる。
西尾根の先端部は、慶長年間に伊予国から来住した栄賢に復興された吉祥寺(広福寺の奥院と伝える)の造営により改変され、遺構群の状況は不明である。
広福寺跡は、谷の開口部にあり、一町ほどの広さのなかに、往時を偲ばせる石垣(加工石を使用)を築いた大小の区画が、数区画遺存する。全体に山林を形成するが、山麓部は杉や檜の植林となっている。
構造
山頂部は、東西に長く全長約155mあり、周囲は急崖となる地形である。中央の狭小な鞍部を境に東と西の遺構群に分かれる。最高所である西側は、比較的しっかりとした東西40m×南北10mの略長方形の平場を造成し、周囲を数段の石積み(北辺2箇所、南辺1箇所の3箇所で確認される)と切岸で固める。
南辺の中央付近には略方形の低位な高まり(一見櫓台とも見て取れるが、接続する土塁状遺構の東南隅が最も高いこと、また土塁状遺構の東端部にあたることなどから、土塁の崩壊した状況を示している可能性もある)があり、東方の削り出しによる土塁状遺構に連なる。東側は、尾根先端部において数段の削平段が認められ、大半が自然地形を残し、最小限の造作を行っているのみである。
山麓部は、東西の尾根に囲まれ、北に開口する谷間に隙間なく尾根頂部から谷底まで累々と階段状の大小の削平段が築かれて、スタジアムを彷彿させるような配置となっている。
一部に数段の石積みの見られる削平段は、谷底や開口部に向かってしだいに規模を大きくし、レベルを違え、互い違いに配置する工夫も見られる。谷の開口部には、北側を衝立のような平場と帯状の曲輪をもつ尾根に囲まれた大きな空間(広福寺跡)が広がり、内部は東西の尾根と北面の尾根によって遮蔽される構造である。
こうした山麓部に確認される削平段の評価について、当初、植林のための造成に伴うものではないかとの危惧があったが、中国やタイ産等の陶磁器やかわらけ、備前大甕、石臼などが山麓の広範囲の削平段に分布していることが確認でき、戦国期の遺構であると判断される。しかし、谷底や開口部付近の平場は、広福寺の坊跡の可能性もある。
歴史
天正14年10月、島津義弘の弟家久が豊後国侵入に当たって家久軍1万余騎が在陣し、豊後府内、佐伯、大野方面侵攻の本陣となった。さらに天正15年3月1日、島津氏討伐のため、豊臣秀吉が大阪城を出陣することを聞いた義弘は、3月15日に急遽府内を出発して、家久の迎えを受けて3月16日に帰陣し、評議を行い3月17日の撤退が決定された(文書番号記録部1/12 ・ 1/29)とある。
構造については、「松尾の城へ上がり見申候、城ハ切岸廻し候而、番や一ツ作候而、平田狩野介麓に被居候、新納縫殿助も麓江候て、夫丸様成もの壱人ツツ番二上セ候」(文書番号記録部/24)とあり、山城は切岸を廻し、陣夫を上げ、物見の番屋を作り、麓には本陣を設置したと考えられる。
本陣施設については、上記史料から家久の起居する建物の存在が推測されること、『大友興廃記』に松尾山広福寺を
根城と定め、とあることなどから広福寺が利用されたと思われる。すなわち、家久は広福寺を本陣として、谷間を兵の駐屯施設として使い、山城に物見機能をもたせたと言えよう。
島津軍の本陣松尾城は、「松尾山広福寺木版略縁起」(慶長16年)によれば、「堂裡山門十一ヶの房舎に悉放火し、堂地坊跡空敷而已」とある。なお、「松尾城」の名称は島津史料の中に見え、豊後側資料では「陣松尾山」・「三重郷松尾山」と記される。
松尾城表採の遺物
松尾城からは縄張り図作成の調査時あるいは地元の愛好家や三重町教育委員会の踏査の際に、多量の遺物が表面採集されている。今のところ発掘調査は行われていないが、現状でも山城の表面にかなりの量の遺物が散布しているようだ。
表採遺物は三重町教育委員会が所蔵しており、その中には山城のどの地点で採集されているのかが注記されているものもある。
情報提供:豊後大野市歴史民俗資料館