歴史
角牟礼城は源為朝が築城したという伝承が残るが定かではなく、文献上の初見は、文明7年(1476)である。「豊後国志」によると弘安年間に森三郎清原朝通が居城し、応永年間(1394~1427)から大友氏に属し、永禄年間(1558~1569)には大友氏の支城になっていたとある。その後は玖珠郡衆の管理となっていたが、天文年間(1532~1554)に玖珠郡衆のひとりである森氏が再び居城したという。
戦国期の角牟礼城は玖珠盆地全体に睨みをきかすというよりも豊前側に対する押さえとしての役割を担う城となる。天正14年(1583)の島津軍の侵攻では、伐株山城を追われた玖珠郡衆が立て籠もり、島津軍の豊後撤退まで守りきった。
大友氏除国後の豊後は太閤蔵入り地となり、文禄3年(1594)に日田郡・玖珠郡に送り込まれた毛利高政が玖珠の拠点を角牟礼城とし、同国佐伯に転封するまでの間に石垣を持つ近世城郭に改修したと考えられている。
関ヶ原の合戦に呼応した豊後国内の内戦では、西軍の毛利方に対し黒田軍が攻め寄せたが、説得に応じて開城すると、黒田氏は角牟礼城番に母里太兵衛を置いたという。
慶長6年(1601)、西軍だった伊予の来島長親は、懸命の願いによって、豊後国玖珠郡森に1万4千石を与えられた。玖珠郡森に来た長親は角牟礼城に入らず、南麓に陣屋を構えた。2代藩主久留島通春(元和2年に久留島に改名)が提出した正保の城絵図の控えとされる「豊後国玖珠郡森久留島丹波守屋敷絵図」には、陣屋の北側に「角牟礼古城」と記され、石垣と陣屋から城跡まで延びる城道が描かれている。古城とあるように、久留島氏は城として使用しなかったが、江戸時代を通して御留山として管理していた。
城を持たなかったとされている久留島氏ではあるが、家臣の田坂家に残る古文書には、入部当初「角埋山に
御城之地取とも有りで土塀ばかり掛け置き給う」と記され、別の古文書には、2代藩主が廃城し、3代藩主が修復を願い出ようとしたという内容が記されている。結局角牟礼城は修復されることはなかったようだが、江戸時代初期において、久留島氏が角牟礼城を城として意識していたことがうかがえる内容である。
遺構
角埋山は南側を除く三方を切り立った崖に囲まれているため、主に山頂の本丸から南側斜面に向かって守りを固めている。本丸から二の丸にかけて連続する曲輪と切岸があり、二の丸南側から三の丸の外周に畝状竪堀群がつくられている。
石垣は本丸の北側、二の丸の南側と西側、三の丸に築かれている。二の丸の石垣は角埋山頂を囲む崖に繋がっており、この崖を石垣とみなせば総石垣の考え方と言ってよいと思われる。特に二の丸南側にある石垣は全長約100mで、角牟礼城跡最大の規模である。虎口は二の丸の南側(大手側)と西側にあり、いずれも外枡形の虎口に門の礎石が残されている。
近世初頭に石垣を持つ城郭に改修されたが、その改修範囲は部分的で、中世的要素と近世的要素を同時に見ることができる山城となっているため、「土づくりの城から石垣を主体とした城への変遷を知るうえで重要」と、国の史跡指定を受けた。
交通
・JR九州久大線豊後森駅から車で約15分。
・三島公園から末廣神社を経由して徒歩で約40分。
情報提供:玖珠町教育委員会