光岡城(みつおかじょう)

光岡城 投稿者:岩魚守さん

城郭基本情報

名称(よみ) 光岡城(みつおかじょう)
通称・別名 赤尾城
所在地 大分県宇佐市大字赤尾字光岡
天気情報

11/24(日) 降水確率:30%
14℃[-1]6℃[-1] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 宇佐市経済部観光まちづくり課観光文化振興係[電話
分類・構造 単郭式山城
築城主 赤尾種綱
築城年 正平5年〔南朝〕/観応元年〔北朝〕(1350)
主な城主 赤尾氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、土橋、井戸跡、掘立柱建物跡、物見櫓跡、柱穴
指定文化財 県史跡(光岡城跡)
再建建造物 石碑、説明板

立地 

市内西部の上赤尾地区にある標高130mの丘陵上に構築された山城であり、集落との比高差は約80mを測る。平時は谷内にある館で生活し、非常時に立て籠もる詰城として使用されていたものである。館跡の堀・土塁の一部は近年まで現存していた。

城跡からは宇佐平野をはじめ西国東から東中津が、前面には豊前海が一望にできる。また、当時の主要な城である時枝城・高家城・高森城が、背後には妙見嶽城も望むことができる。さらに、晴天時には山口の宇部・小野田(旧周防国)も望むこができるという地理的にも重要な場所に立地している。

現状 

昭和58年の調査時には、城跡内部の北側及び南側の土塁の一部が壊され、横堀を埋められた状態で確認された。平成23年度の発掘調査では多くの建物跡などが確認されるなど保存状態はかなり良好なものであるといえる。

城跡北側約250mの尾根の斜面には岩盤より染み出る水を溜める升形の掘込みが構築されており、地元民はこれが井戸跡であると伝えている。

現在城跡は、大分県指定史跡として建物等の遺構表示(床面復元1棟を含む)・説明板の設置などの史跡整備が実施されている。さらに、史跡周辺の整備もなされており、市内外から多くの観光客が訪れている。

構造 

丘陵の尾根上に横堀を巡らした単郭式の山城であるが、内部の土塁の各コーナー部分に張出しが構築されていることや虎口部分の外側土塁に食違いを持たせていることなど当時としては斬新的な構造をしているのが特徴的である。

主郭は南北約140m、東西約80mの規模をもち、谷を見下ろす位置に土橋の虎口が構築されている。内側土橋の張出し部分のほか4ヵ所において櫓跡と想定される平場及び階段の痕跡が確認された。主郭内部は2段の曲輪で構成されている。

発掘調査で確認された4棟の大型掘立柱建物跡は郭北側の虎口前面に集中し、その内の1棟は検出状態より物見櫓跡と想定される。柵列の南側部分では岩盤をノミで穿って柱穴を掘っている。横堀は空堀であり、平成23年度の発掘調査により北側及び南側部分は破城時の内側土塁の土砂により2.7mほど埋められていたことが確認された。

復元される土塁との比高差は約10mを測る。北側の横堀では鈎の手状に屈曲していることが注目される。堀の掘削により生じた石を利用して外側土塁上に高さ1m程の石垣を構築し、その内側には幅1mほどの犬走りが巡っている。

歴史 

『豊州城堡記』によると、「建武年中(1334~6)高武蔵守築之。貞和六(1350)年4月筑前原田之余流赤尾孫五郎種親か族赤尾次郎左衛門尉種綱尊氏将軍二属、吉田村之地頭職二被補任、嫡男兵庫介弘種・嫡孫修理亮国種か代大内家ニ従、兵威ヲ輝也、文明中(1469~87)寺庵建立吉田村ヲ赤尾ト改。」とある。

また、『今永家文書』(市内森山)の文安2(1445)年頃の記述には「赤尾城近村五ケ村云々」とあることなどから、赤尾氏が1350年以降からこの地の豪族として勢力を誇っていたことがわかる。しかしながら、『今永家文書』にあるの赤尾城が光岡城のことであるかは不明である。

これに対し「佐田文書」には、「天正8(1580)9月8日に、築上郡の城井氏や長野氏らが、赤尾三河入道(統秀)の宅所と切寄を攻撃し村中に放火した」ことが記載されており、すでに平時の館である宅所と詰城となる切寄(光岡城)とが存在していたことがわかる。

光岡城跡の主郭内部の発掘調査では遺物が一点も出土していないため城の存続時期などは不明である。しかしながら、堀・土塁の特徴的な構造などから、現存している遺構は天正15年以降のものである可能性も考えられるため、これから解明していかなければならない課題としてあげられる。

情報提供:宇佐市教育委員会



城郭口コミ


2022/07/29 00:19【猛】源九郎豊前守牛若丸
上深水城塞:「中津市の中近世城館」によると、深泉寺裏山に残る大規模城塞で、本城郭は東西360m、南北140mと規模が大きく、多くの兵員の収容が可能と考えられ、宇佐へ向かう麻生口を抑える重要城郭であったことは間違いないとありました。いずれにしても相当有力な武士階級によって宇佐郡境を抑えるために構築された大規模城郭とみなしてよく、本地区や宇佐市清水付近を拠点とした在地領主の内尾氏、または深水氏の関与も視野に入れる必要があるそうです。遺構の構造としては主郭北に畝状竪堀を3本、下段に畝状竪堀を4本構築しており、北東域は腰曲輪、堀切、東端域は尾根両側に畝状竪堀があり、堀切も構築されているようです。

2022/07/27 22:23【猛】源九郎豊前守牛若丸
上深水奥畑城塞:「中津市の中近世城館」によると、在地領主の内尾氏の居館跡で、永禄9(1566)年、宇佐郡の麻生親政が大友氏に背いた折り、田原紹忍が近郊の諸城主を招聘し、深水村麻生口を固めるため田島城主の成恒鎮家が搦め手の将として毘沙門堂に陣した旨が記されており、本城郭の南西下に毘沙門堂があります。また、天正14(1586)年9月の大友義統による佐野攻めに参加した内尾帯刀の墓が下毛郡深水村奥畑にあると記されていて、関連性が窺えるとありました。土塁や帯曲輪があるようです。

城郭攻略情報


2024/05/19 12:31
【千成瓢箪】征夷大将軍クララ姫
豊後高田市から中津へ走行中、県道629号線から安定攻略だワン
2022/06/12 13:49
ゆきひめ左大臣
日豊本線と県道505号線の交わるあたりで攻略!
2020/03/22 07:54
桜井太政大臣静龍
日豊本線ソニック下り、今津駅通過中に攻略できました。Softbank
2019/07/18 21:41
戸次豊前守紹運亮幸盛
院内インター辺りでポチリと。その後、リア攻め!
2017/11/25 13:21
能登守急行サロベツ
東中津~今津間にて落城

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 【猛】源九郎豊前守牛若丸さん 147

 2位 城好きミスター豊前守さん 121

 3位 真玉豊後守城オヤジさん 67

光岡城の周辺スポット情報

 土橋と虎口(遺構・復元物)

 内堀(遺構・復元物)

 櫓跡(遺構・復元物)

 櫓台(遺構・復元物)

 柱列(板塀)跡(遺構・復元物)

 外側の土塁と堀(遺構・復元物)

 石碑(碑・説明板)

 光岡城登城口(碑・説明板)

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