飯豊町大字萩生は、近世の萩生村、中世は萩生郷で、天文7年(1638)の御段銭古帳によれば、「国分方萩生」と「萩生南方」に二分されていた。南方は、伊達氏の家臣浜田氏一族の所領があり、天文の乱後は、浜田左馬助が本領文を安堵されているのに対し、国分領は、国分民部小輔が本領安堵を受けている。その他に、中野常陸介以下数名の地頭領主の所領が散在することになるが、萩生城は、代々の国分氏一族の居館と考えられ、萩生郷の半分を一円的に支配していたものと考えられる。
国分氏は、伊達政宗から嘉慶2年(1388)に「長井庄萩生郷」を、応永9年には「刈田郡平沢郷(現宮城県)」に知行配分を受けているが、南北朝の末期に伊達氏が長井氏を攻略して置賜地方に侵攻した直後にあたる。萩生国分氏は、系図によれば、その2代前に「萩生郷に住した」政信をもって初代としている。その後、国分氏は伊達信夫、最上などの広範な地に所領を拡大していることや、永正6年の伊達尚宗の軍勢催促の命を受けて、下長井の被官衆に回状を発している国分平五郎胤重の存在などから、伊達氏に対しても自立性の高い国人領主であったと考えられる。
萩生城址は、現存する景観と明治8年の地籍図などから、主郭部と出丸をもつ複郭式の平城と、それを中心にした
原城下町的な町割という、国人級武将の居館跡が比較的良好に復元できる遺跡である。主郭部は南北145メートル、東西77メートル、面積はおよそ1,116平方メートルで、現在は城址公園とコミュニティセンターと民家の敷地となっている。東側と南側及び北側の堀跡は、水田となってわずかに昔の姿を偲ばせる程度であるが、西側は、幅10メートルの水濠を巡らした跡が現在も明瞭に残っている。内部を囲む土塁は、現在西側の大部分と南側の一部が残っているが、幅10メートルあり、高さは3~5メートルで、一番高い所では18メートルを数える。特に、西南隅には物見櫓があったと伝えられている。東側と北側に虎口が設けられていたとみられ、大手口に当たる東側からは、家臣団集落である「内町」を通り「粕町」「雪舟町」などの商人町へとつながっている。大手門跡には、昭和20年頃まで樹齢500年以上の杉の巨木が2本あって、地元の人から“門杉”と呼ばれ親しまれていた。南方にも南門があったと伝えられている。
主郭部の西方には、南北147メートル、東西64メートルの出丸跡がある。水堀と土塁に囲まれているが、内側の土塁は高さが3~4メートルで、北側で幅13メートル、西側と南側ではそれぞれ10メートルである。さらに北側の堀には、現在も水を満々とたたえ貯水池として利用されている。西側は、現在草地などになっているが、地形的には泥田堀であったと考えられる。出丸跡には、応永年間に移転し、伝えられる恩徳寺と石硯文殊堂が建立されて、その境内地になっている。さらに、城域を中心にして西方に阿弥陀堂、諏方神社が位置し、北方には国分氏の菩提寺である吉祥寺と稲荷馬場があり、当時の姿が偲ばれる。
国分氏は、天正19年の伊達氏の陸奥岩出山移封に伴って当地を去り廃城になった。
なお、萩生城址は、昭和62年に飯豊町の文化財として史跡に指定されている。
情報提供:山形県教育委員会