名称(よみ) | 志川滝山城(しがわたきやまじょう) |
通称・別名 | 四川滝山城 |
所在地 | 広島県福山市加茂町北山145 |
天気情報 |
04/05(土) 降水確率:40% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
分類・構造 | 山城 |
築城主 | 宮(高尾)義兼 |
築城年 | 明応8年(1499) |
主な城主 | 宮氏 |
遺構 | 曲輪、堀切、井戸跡 |
再建建造物 | 説明板 |
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志川滝山城(しかわたきやまじょう)は、戦国時代に備後国(現在の広島県福山市)にあった日本の城(山城)。
概要
志川滝山城は戦国時代に備後国で一大勢力を誇っていた国人「宮氏」によって築かれたといわれ、神辺平野の北部、芦田川水系四川の水源地に近い急峻な山中に位置している。城郭は標高392mの山頂部の尾根に構築されたもので、神辺平野を一望できる位置にある。曲輪は山の山頂部を削平した長大な主郭を中心に周囲に帯郭、腰郭を配置し、更に東側には3条の堀切で隔てた出丸とも呼べる曲輪があり、この西端には櫓台が配されている。しかし、西側はなだらかな斜面であるにもかかわらず明確な防御施設が設けられず、この城の弱点となっており、実際、志川滝山城はこの部分から攻められて落城している。
歴史
江戸時代後期の地誌『西備名区』によると、志川滝山城は山野の戸屋ケ丸城主宮三郎義兼が明応元年(1462年)に築城し、以後3代にわたって居城としたとされる。天文21年(1552年)、中国地方の覇権を掌握しようとした毛利氏が備後国へ侵攻すると、尼子氏傘下であった宮氏は志川滝山城に篭城し、「志川滝山合戦」が勃発した。
江戸中期の軍記物語「陰徳太平記」によると、合戦は7月23日に行われ、籠城する宮光音以下380人に対し毛利元就は3800の兵で押し寄せ、1日で落城したという。宮光音は備中国に逃亡し、この結果、毛利氏は備後南部を勢力下に置くことになった。
現状
志川滝山城跡の南側にある渓谷には現在四川ダムが設置されており、当ダムの貯水湖は滅亡した当城にちなみ「城山湖」と名づけられた。なお四川ダムまでは大きな道路が整備されているが、そこから直接城跡に行くのは急峻な崖であり難しく、さらに上流の大谷池(明治期の貯水池)の土手に行きそこから目指すしかない。
参考文献
- 『福山の遺跡100選(http://bingo-history.net/archives/813)』備陽史探訪の会、2010年
2023/01/04 13:40 織田上総介晃司
小糸城:住宅地内にあり城の駐車場はありません。今回、小糸城跡の向かいの荒神社に車を停めました。(荒神社の一帯も小糸城の城域と云われる)尚、狭い道なので軽自動車がいいです。主郭の大部分にはソーラーパネルが設置されており城跡として行くとがっかりします。小糸城は宮(法成寺)氏の居館で、北東の山城・掛迫城は詰城となります。武田信玄の躑躅ヶ崎館と要害山城の関係と同じです。小糸城の北西部に位置する服部地区はゲンジボタルを育てており、5月末から6月中旬にはホタルが飛び交う姿を見ることができます。
2022/03/06 20:25 織田上総介晃司
遍照寺山城:途中から急坂になりますが神辺墓苑を目指して進み、墓苑の駐車場に停めます。墓苑のそばにある遍照寺の裏山一帯、コの字を描くように城域があります。備後屈指の中世山城ですが、残念ながら墓苑造成などにより遺構の一部が破壊されてしまった…そして本丸も改変されている…遍照寺の旧山号や文献から正式名称は「今大山城」と判明したのですが、俗称の遍照寺山城の方で知られています。
来月度の城主争い戦況
1位 内股宮内卿頻尿丸さん 21回
2位 幸運兎治部卿さん 8回
3位 tanikazeさん 1回
案内板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
古代山城 茨城(うばらのき)推定地案内板(碑・説明板)
掛迫城(周辺城郭)
遍照寺山城(周辺城郭)
小糸城(周辺城郭)
駐車スペース(駐車場)
標識(滝山城跡まで3.1km)(その他)
登城口(その他)
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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