亀山城(かめやまじょう)

亀山城 投稿者:SEI治部卿雲鷹さん

城郭基本情報

名称(よみ) 亀山城(かめやまじょう)
通称・別名 丸山城、湯川城、湯河城
所在地 和歌山県御坊市湯川町丸山
天気情報

05/10(金) 降水確率:0%
22℃[+3]11℃[-2] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 御坊市教育委員会生涯学習課[電話
分類・構造 山城
築城主 湯川光春
築城年 室町時代前期
主な城主 湯川氏
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 県史跡(亀山城跡)
再建建造物 石碑、説明板
亀山城(かめやまじょう)は、和歌山県御坊市湯川町丸山にある山城。

歴史 

築城年代は定かではないが、湯川氏により築かれたと伝わる。

湯川氏は南北朝内乱期には北朝に属して勢力を拡大し、少なくとも15世紀初頭には将軍直属で守護不入権を持つ奉公衆に編成された。戦国時代には、守護の畠山氏をも凌駕するほどの実力を備えていたという。

亀山城は小松原館の詰城として、15世紀中頃の両畠山氏の家督争いの時期に築かれたと推定される。畠山氏が政長流と義就流に分かれて抗争を始めると、湯川氏は政長流について戦った。その後は紀伊国内で地位が向上し権力を保持したようだ。

永正17年(1520)には、熊野衆と結んで紀伊国内に覇権を確立しようとした畠山尚順を、野辺氏らと結んで淡路に追放。以後、日高郡・有田郡にまたがる戦国領主として君臨した。

天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、湯川直春は抗戦を主張。娘婿である手取城主の玉置直和がこれに従わなかったため、200余名で手取城を攻め落とした。その後、秀吉の大軍に亀山城を攻められると、湯川氏は城を焼き払って退去し、後に和睦した。

遺構 

日高平野の中央部にそびえる、標高約120mの亀山に築かれている。城東1.5kmには熊野街道、山麓には比井殿街道が通る。

本城と、東尾根の出城で構成される。本城は上下2段に分かれ、直線的な土塁で囲まれた空間だ。南西隅や南東隅部には櫓台らしき高まりもあるが、堀切などの遮断線はなく、2か所の虎口も平虎口だ。

出城は本城の東尾根先150mのところにあり、現在は竹林になっている。削平のあまい主郭の東側に3本の堀切を設け、周囲に横堀のような溝を取り巻いているという。

本城と出城を合わせても小規模で、小松原館と比較すると面積は狭い。秀吉の侵攻時に城に籠らず逃げていることからも、籠城を想定した城ではなかったようだ。

交通 

・西日本旅客鉄道・紀州鉄道御坊駅から徒歩約25分
・湯浅御坊道路御坊ICから車で約15分

参考文献 

・『図解 近畿の城Ⅱ』戎光祥出版、2015年。

文:萩原さちこ



城郭口コミ


2024/01/03 17:20国府左京大夫城介
小松原館:守護館にも匹敵する湯川氏の居館【歴史】天文18年(1549)頃に、湯川直光(湯川氏第11代)が土居を築いたと伝わる。天正13年(1585)に豊臣秀吉の旗手征伐が始まると、湯川直春(直光の子・湯川氏第12代)は熊野山中に退去し、その際に居城の亀山城と共に小松原館にも火をかけたと伝わる。別名:小松原土居、小松原屋敷【遺構】亀山城の南東950mに位置し、東西225m・南北200mにもなる方形居館であった。遺構は湯川子安神社に館の庭園池の跡が残るのみである。往時の館は、高校と中学校の敷地に位置し、発掘調査から北側と西側には堀の跡が確認され、特に西側の堀は二重堀だった。また、東側にも外堀があり、堀底から...

2024/01/01 12:59宇治ひろの勘解由長官ふくやん
亀山城:2023大晦日に攻城。海抜121mまで一気に登る感じでキツいです。災害時の避難場所としても整備されていて大事にされています。削平された本丸や堀切、切岸、土塁などが確認できます。コンパクトな面白い史跡です。

城郭攻略情報


2023/06/17 17:01
あざらし肥前守
御坊市湯川町財部、野天風呂・宝の湯。(❜18・7攻略)
2020/07/11 17:36
CemaNabuKo
御坊IC通過では攻略できませんでした。
2019/01/01 12:06
百華
高速降りて日高川を越えたところで攻略しました。
2017/10/13 08:55
いちすぎ近江守
高速道路からは、攻略できませんでした。

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 KEN@甲斐守さん 61

 2位 山ちゃん。さん 36

 3位 熊楚姫本之宮熊治朗さん 23

亀山城の周辺スポット情報

 出城(遺構・復元物)

 小松原館(周辺城郭)

 丸山中央集会場(関連施設)

 

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