百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。また、紅葉の名所としても知られている。
歴史
創建以降
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)に聖徳太子によって建立されたという。太郎坊山(現・太郎坊阿賀神社)の麓に宿をとっていたともされる聖徳太子は、当時来朝していた高句麗の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くとそれは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のままで刻んで十一面観音像(植木観音)を作ると、像を囲むようにして堂を建てたという。これが当寺の始まりであるとされ、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。
龍雲寺と当寺の本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観音であると伝わる。また、当寺は近江最古の仏教寺院であるという。
他にも、日本初の僧正となった百済からの渡来僧・観勒は、当寺の建立に際して、祖国百済の都であった熊津(ウンジン、現・公州市)と同じ北緯35.1度線上に当寺を建て、夕日の向こうにある百済を偲んだといわれている。なお、北緯35度線上には当寺から西に向かって太郎坊山(現・太郎坊阿賀神社)、比叡山(延暦寺)、次郎坊山(鞍馬山、鞍馬寺)がある。
当寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には近江国の多くの寺院と同様比叡山延暦寺の勢力下に入った。
承安4年(1174年)に大火にあっている。
寿永2年(1183年)の治承・寿永の乱の際には、延暦寺の動きを見極めるために蒲生野に1か月も駐屯していた源義仲より兵糧の提供を頼まれて、当寺は米五百石(1250俵)を義仲軍に送った。窮地を救われた義仲はいたく感銘を受ると、百済寺郷の集落の一つ北坂本の坂本神社の社殿を造営するとともに、押立五郷を当寺に寄進したという。
建暦3年(1213年)に比叡山無動寺の末寺となって天台宗の寺院となり天台僧の修行場として発展し、「湖東の小叡山」や「天台別院」とも称されるようになった。こうして当寺は北谷・東谷・西谷・南谷に1,000近い坊を持ち、1,300余人を擁する大寺院となった。
文永11年(1274年)に大火にあっている。
明応元年(1492年)に兵火にあい、明応7年(1498年)に火災が発生して本堂とその近辺が焼け、その数年後の文亀3年(1503年)に第一次伊庭氏の乱が勃発し、近江守護六角高頼と守護代伊庭貞隆との争いに巻き込まれてほとんど焼失した。この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。
それでも寺勢はやがて回復し、戦国時代に来日した宣教師のルイス・フロイスは当寺に滞在したこともあり、当寺のことを「地上の楽園」とその書簡に書いている。
永正15年(1518年)から大永3年(1523年)にかけて当寺は城郭化されたが、その際に六角氏から重臣の進藤賢盛が派遣され、城郭化が行われるなど六角氏と当寺は鎌倉時代以来の親密な関係にあった。
天文5年(1536年)の天文法華の乱で当寺の学僧6人が参加し、討ち死にしている。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭とともに上洛を目指して近江国に進出すると六角承禎は破れ、観音寺城から撤退して抵抗を続けた。そして、当寺は信長から祈願所に指定された。それは明らかに当寺は他の寺院とは違って別格として扱われている表れであるという。
その承禎は元亀4年(1573年)4月に当寺の近くにあった鯰江城に籠城した。その際、当寺は六角氏の味方をして兵糧を運び入れ、六角軍の妻子を匿うなどをしたため同月11日に信長による焼き討ちに遭い、またも全焼した。また、当寺は信長軍の兵糧米を略奪するなどの敵対行為を行ったためでもあったという。ただ、本尊の植木観音は約8キロメートル離れた場所にある奥の院不動堂に避難させて無事であった。
天正3年(1575年)に仮の草堂が建てられ、本尊が安置される。
天正12年(1584年)に堀秀政によって仮本堂が建立される。翌天正13年(1585年)に田中吉政より本尊仏具灯明料が寄進される。
江戸時代以降
慶長7年(1602年)に徳川家康によって近江国で検知が行われた。当寺がある愛知郡で検地を行なっていた奉行は米津親勝で、当寺の僧坊の一つ千手坊の仙重とは縁続きの間柄であった。そこで、仙重は岩本坊尊海、南院坊亮応と連名して親勝を介して荒廃した当寺の現状を家康に訴えると、当寺は家康より寺家屋敷46石5斗、不動前50石、北袋50石の合計146石5斗の土地を寺領として安堵された。次いで 慶長17年(1612年)には再び家康より寺領100石が寄進されている。また、同年に当地は彦根藩の所領となる。
元和3年(1617年)には将軍徳川秀忠より寺領100石を安堵される。
寛永11年(1634年)に天海大僧正の弟子亮算が入山し、塔頭の千手坊の名が喜見院に変更された。
寛永14年(1637年)には亮算は南院坊亮応、岩本坊圓海と連名で当寺の本堂以下を再興するため朝廷に言上して勅許を願い出ると、明正天皇によって再建を勅許するとの綸旨を給わった。僧侶たちは諸国に勧進して江戸幕府からの援助はなかったが、老中の土井利勝、酒井忠勝、家康の側室であった英勝院や春日局、天海、寛永寺などから寄進を受けたほか、南院坊亮応の叔父で幕府の作事方大棟梁の甲良大工・甲良宗弘より500両という大金が寄進されている。また、当地は彦根藩の飛び地でもあったため彦根藩主井伊直孝からの支援も得て復興が行われ、慶安3年(1650年)に本堂・仁王門・赤門が完成した。よって本堂をはじめ現在の建物はすべて近世以降の再建である。合わせて鎮守社である十禅師社(現・日吉神社)も復興を進められた。
万治元年(1658年)に井伊直滋が父・井伊直孝によって廃嫡されると当寺で出家し、隠遁している。
喜見院は今とは別の場所にあったが元文元年(1736年)に焼失し、翌元文2年(1737年)に仁王門下の左方に移転した。
1868年(明治元年)には神仏分離によって当社の鎮守であった十禅師社・八幡社・白髭社・大行事社が分離され、独立した。
喜見院は1940年(昭和15年)に現在地に移転して当寺の本坊となり、庭園が造られた。参道両側には石垣で出来た僧坊跡である百坊跡・二百坊跡・七百坊跡がある。
なお、織田信長の焼き討ちを受ける前はこの寺院で「百済寺樽」といわれる清酒を酒造していたが、焼き討ちの被害によって廃止された。2017年(平成29年)には444年ぶりに「百済寺樽」の復活プロジェクトが始まり、翌2018年(平成30年)1月に「百済寺樽」が完成、数量限定で販売された。
また、「釈迦山」という山号は大変珍しく、当寺のみである。現在は紅葉の名所となっている。
当寺は石垣に覆われており、まるで山城のようである。
仁王門と大草鞋
昔から百済寺郷の人は仁王門に草鞋や草履とともに牛の藁沓を供えて祈る風習がある。山里の人々は山道を歩いて材木や薪炭を背に負って細い山道を登り下りしなければならなかった。そのためには丈夫な足腰を必要とし、仁王(金剛力士)様のような丈夫な体にして頂きたいと祈願したのが始まりで、個人個人が供え物をもって祈願したものである。
大草鞋は昔は仁王像の大きさに応じて50センチメートル程度の大きさであったが、江戸時代中頃から仁王門を通過する参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり、触れると身体健康・無病長寿のご利益があるといい伝えられ、草鞋が大きいほどにご利益も大きいとされてどんどん大型化していき、今では3メートルほどの大きさとなっている。現在では百済寺本町の人々が協力して約10年毎に大草鞋を新調し、奉納している。
境内
赤門を入り参道を進むと途中左側に本坊の喜見院があり、そこから石段を上ったところに仁王門、さらに上ったところに本堂が建つ。
- 本堂(重要文化財) - 慶安3年(1650年)再建。入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。中世以来の天台形式の構造で密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築となっている。元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。
- 鐘楼(東近江市指定有形文化財) - 初代の梵鐘は元亀4年(1573年)4月11日に織田信長による焼き討ちの際に持ち去られ、2代目は太平洋戦争時の金属類回収令で供出され、現在のものは1955年(昭和30年)鋳造の3代目である。
- 三所権現社(東近江市指定有形文化財) - 祭神:熊野三所権現。一間社流造。
- 千年菩提樹 - 樹齢は推定約千年。信長の焼き討ちにあって幹まで焼損したが、辛くも生き残った。
- 弁天堂 - 2013年(平成25年)再建。
- 五重塔跡 - 礎石が残る。
- 仁王門 - 慶安3年(1650年)再建。
- 喜見院 - 本坊。
- 庫裏
- 書院(国登録有形文化財) - 1940年(昭和15年)再建。
- 不動堂(東近江市指定有形文化財) - 大萩西ヶ峯にある奥の院の不動堂を明治時代に本坊の隣に移築したもの。
- 庭園「天下遠望の名園」 - 昭和時代中期に鈍穴流花文造園三代目・山村文七郎により作庭された池泉回遊式庭園ならびに観賞式庭園。寺社庭園としては滋賀県内最大級である。
- 南庭
- 表門
- 蛇封じの井戸
- 百坊跡 - 石垣が残る。
- 二百坊跡 - 石垣が残る。
- 七百坊跡 - 石垣が残る。
- ねずみ地蔵
- 極楽橋 - 赤門側が「此岸」、渡り終えた本堂側が「彼岸」とされている。
- 天文法華の乱戦士供養塔
- 阿弥陀堂
- 峻徳院墓所(井伊直滋の墓) - 享保18年(1733年)建立。
- 赤門(総門、東近江市指定有形文化財) - 慶安3年(1650年)再建。江戸時代後期・明治時代初期・昭和30年代に続き、2018年(平成30年)4月にも修復が行われている。この門の前には小野道風の筆と伝えられる下乗石がある。
文化財
重要文化財
- 本堂
- 木造十一面観音立像 - 植木観音。当寺の本尊で秘仏。一木造で像高2.49メートル。本堂に安置。奈良時代の作で滋賀県最古の木造仏である。奈良時代作の木造仏では京都府京都市山科区にある安祥寺の十一面観音立像(2.52メートル)に次いで全国二番目の大きさである。
- 絹本著色日吉山王曼荼羅図 - 鎌倉時代。
- 黒漆蒔絵箱(紺紙金泥法華経入り) 1合
- 金銅唐草文磬 1面
- 鈸子(ばっし) 1対・銅鑼 1口 - それぞれに建長八年丙辰八月日の刻銘がある。
国指定史跡
国登録有形文化財
滋賀県指定有形文化財
- 紺紙金泥妙法蓮華経 開結経共 部分10巻 - 10巻中の蓋裏には「応永十六年己丑二月十七日」の在銘がある。
- 絹本著色黄不動尊像 - 鎌倉時代。奥の院に祀られていたもの。
東近江市指定有形文化財
- 赤門(総門)
- 鐘楼
- 熊野三所権現社
- 不動堂
- 木造聖観音坐像 - 明応7年(1498年)作で院派の銘作と謳われる。
- 木造如意輪観音半跏思惟像 - 明応8年(1499年)4月2日の作。願主は権律師源春で、開眼は灌頂阿闍梨圓信。
- 金銅弥勒半跏思惟像 - 秘仏。飛鳥時代・白鳳時代の作とされている像高27センチメートルの小金銅仏。
- 木造不動明王二童子像 3躯
- 木造毘沙門天立像 附:永正九年造立願文一紙
- 絹本著色如意輪観音像 - 南北朝時代から室町時代。
- 神馬図絵馬 2面 - 天正17年(1589年)6月18日に奉納されたもの。
- 石曳図額 - 制作年代は不詳。
- 三十六歌仙屏風 1双 - 桃山時代。
- 孔雀文銅磬 1面
- 百済寺懸佛 7面 附:1面 8面
- 熊野三所権現御正躰(鏡板)
- 百済寺境内出土遺物 6点
- 瀬戸灰釉瓶子(中世墓出土)
- 常滑三耳壺(中世墓出土)
- 白磁四耳壺(中世墓出土)
- 土師質筒型容器(中世墓出土)
- 常滑ニ筋壺(中世墓出土)
- 信楽桧垣文壺(塔跡出土)
東近江市指定名勝
前後の札所
- 近江西国三十三観音霊場
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15 金剛輪寺 - 16 百済寺 - 17 大覚寺
- 湖国十一面観音菩薩霊場
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9 石馬寺 - 10 百済寺 - 11 金剛輪寺
- 聖徳太子霊跡
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33 西方院 - 34 百済寺 - 35 長命寺
- びわ湖百八霊場
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63 金剛輪寺 - 64 百済寺 - 65 長壽寺
- 神仏霊場巡拝の道
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140 永源寺 - 141 百済寺 - 142 日牟禮八幡宮
所在地
アクセス
- JR東海道線(琵琶湖線) 能登川駅から近江鉄道バス「角能線」、百済寺本町停留所から東に徒歩1.2キロメートル。乗車時間約35分。運賃は2018年8月現在、能登川駅より大人740円、近江鉄道本線愛知川駅前より大人560円。
- 近江鉄道本線・八日市線 八日市駅からちょこっとバス「愛東線・北回り」、百済寺本坊前停留所下車。乗車時間約30分。運賃は2018年8月現在、大人均一200円。
- 近江鉄道本線・八日市線 八日市駅からちょこっとバス「愛東線・南回り」、愛東北小前停留所から東に徒歩1.5キロメートル。乗車時間約25分。運賃は2018年8月現在、大人均一200円。
- 名神ハイウェイバス京都線特急「百済寺」下車、徒歩約20分。乗車時間は京都駅より約60分。名鉄バスセンター・名古屋駅より約100分。運賃は2018年8月現在、名鉄バスセンター・名古屋駅より大人1,600円、京都駅より大人1,300円。
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※近江鉄道バスと名神ハイウェイバス京都線は1時間に1便程度、東近江市ちょこっとバスは両路線とも1日3便のみの運行となっている。名神ハイウェイバス京都線は特急のみ停車し、超特急は停車しない。
その他
- 2023年(令和5年)、NHKが百済寺から許可を取り、本堂で連続テレビ小説「ブギウギ」の撮影のリハーサルを行っていたところ、縁側の床板を支えていた木材が折れ、床板約20枚が5メートルにわたり大きく陥没する事案が発生した。
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、岡部伊都子、濱中光哲、濱中光永、北角良澄ほか著 『古寺巡礼近江6 湖東三山』、淡交社、1980年。
- 『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』、平凡社。
- 『角川日本地名大辞典 滋賀県』、角川書店。
- 『国史大辞典』、吉川弘文館。
- 観峰館・令和5年度特別企画展『近江・聖徳太子伝承社寺の美術―地域に根付いた文化財たち―』、2023年。