城は和田集落の背後、蛇山に築かれた山城である。今も山頂部には石垣などが残る。また、周辺の尾根には出丸と推定される遺構も確認できる。これら出丸も含めて全体として岩尾城を形成していた。
蛇山の山頂部に位置する遺構は、東西約90mx南北約200mある。岩尾城の中心部と評価できる。内部の縄張りは、北部と南部で様相が異なる。南部の曲輪は天守台を中心に石垣が使われていた。一方、北部の曲輪は土塁や堀切で形成され、石垣は見られない。
南部の曲輪では、東・南・西側の周囲三方を高さ2~3mの石垣で固めている。石垣には折れと呼ばれる屈曲があり、通路に対して横矢とよばれる側射を加えることができる。石垣の中央、城内最高所にあるのが天守台。現存する天守台としては初期の事例といえる。東西6mx南北9mで、高さは約2mある。他の天守台と比べて比較的小規模なものといえよう。
登り口は明確でないが、北隅部分のスロープが可能性として考えられる。初期の天守台に多い穴蔵(地階)は確認できない。天守台の北側には、多量の瓦が散布している。天守から崩れ落ちたものであろうか。これは天守が瓦葺きであったことを示唆する。今後、瓦の体積状況を調査すれば、天守の構造を解明する手がかりとなるかもしれない。
天守台の南西には、両側を石垣で固めた虎口がある。虎口とは城の出入口のこと。敵の侵入を防ぐため、戦国時代になると複雑な構造に発達する。この虎口も直進して入ることが出来ない。石垣で囲まれた小空間を経て左に曲がって内部へと入る。
これは、2折1空間の虎口で、千田編年によれば第4類型Aにあたる。編年ではIV期とされ、天正4年(1576)から天正10年の間に位置付けられている。織田・豊臣時代以降に使われる虎口の手法と考えてよい。また、天守台南側の虎口は食違い虎口となっていた。天守台周辺の石垣作りの部分は、明智光秀の丹波平定より以後の遺構と推定出来るであろう。
南部曲輪の周囲は急斜面となる。その南側は鞍部を経て尾根が続く。この鞍部には堀切が設けられている。南部曲輪へは、この堀切底から西側斜面を通り、城の南西斜面をつづら折りに登る通路が確認できる。途中、南西斜面には石組みの井戸も残る。井戸の石積みは、一部岩盤をそのまま利用しており、現在も豊富な水量を保つ。
南部の曲輪の北側は、東西方向の大土塁が範囲を画す。この土塁は高さが2mあり、馬踏が天守台よりもやや高い。天守台を見下ろすような土塁の存在は、他の城では余り類例がない。土塁の存在により、南北の曲輪間の連絡も遮断されている。
北部の曲輪は、南部曲輪よりも低い。曲輪内はかなり広いが、石垣や瓦の散布は確認できず南部と様相が異なる。南東側には、スロープ状の土塁があり、南部との境の大土塁へと続く。
北部の曲輪には、三方から尾根が取り付く。北側尾根に対しては土塁囲みの曲輪と、土橋のある堀切を設けている。西側尾根も二重の堀切で区画している。
岩尾城の中心部についてまとめると、大土塁により北部と南部に大きく分かれる。南部は総石垣で瓦葺き建物が存在した可能性が高い。近世的な色彩が濃いと評価できる。一方、北部は中世城郭的な要素を強く残す。南側は明智・佐野氏時代の改修を受け、北側には和田氏時代の遺構が残ったと考えることもできるであろう。大土塁は、明智・佐野氏時代に南部曲輪に城域を限定するために築かれた可能性が高い。
蛇山は山頂部から四方に尾根が延びる。北側の尾根は、途中に標高307mのピークを経て、坂尻と応地の集落をつなぐ峠道が通る鞍部に至る。途中にも2ヵ所尾根上のピークがあるが、城の遺構は確認できない。現在、山頂の城跡以外に遺構の確認されているのは、南側尾根、西側尾根、東側尾根先端部の三ヶ所である。
南側の尾根は、大手道として城のメインルートであったといわれる。現在も和田集落からの登山道となっている。従来から「下知殿丸」や「南曲輪」、「大手門曲輪」の存在が知られていた。下知殿丸は、山頂部の城跡南側の堀切に続く尾根上に位置する。細長い曲輪が2~3段確認できる。一部には土塁とみられる遺構もある。
しかし、「南曲輪」とし「大手門曲輪」については風化のためか、現地表の観察では明確な遺構は確認できない。
西側の尾根は、標高330m前後で200mばかり西へと続き、その先で尾根が北・西・南の三方へ分かれて急激に下る。途中には3本の堀切状の遺構が確認できる。蛇山山頂の北部曲輪から西側尾根を進むと鞍部を経て西側尾根上の最高所に至る。ここは東西約35m、幅約7mのやや傾斜した平坦地となっている。この平坦地の東西両側に堀切状の遺構が設けられている。西側堀切の内側には、土塁状の高まりもある。一方、東側の堀切は完全に尾根を切断していない。山頂の城に対する西側からの攻撃を防ぐことを重視した縄張りと評価できる。西側の堀切から、さらに尾根を西へと下った鞍部にも堀切がある。この堀切の両側は曲輪とはならない。西側尾根の遺構は基本的に堀切のみであり、曲輪は伴わない。
岩尾城中心部にこの尾根が取り付くところには、二重の堀切があり連絡を遮断している。独立した曲輪としては機能せず、西側尾根からの岩尾城への攻撃を防ぐための阻障として機能したのであろう。
東側の尾根は延長約1.5kmもあり、西側や南側の尾根に比べて、独立性の高い頂が続く。尾根は山頂にある城の北部曲輪に取り付く。ここから尾根上を約300m東へ進むと標高310mの尾根ピークに至る。さらに、その東約400mで尾根は北東と南東に分岐する。南東に延びた方の尾根は、途中に標高258mのピークを経て牧山川の手前まで延びる。この尾根の途中には城の遺構は確認できなかった。しかし、尾根先端部には、城郭の可能性のある遺構が残されている。
ここは現在稲荷神社となっている。2本の堀切があり、堀切間の細長い曲輪とその北西尾根の削平地からなる。北西の削平地はかなりの広さがあるが、尾根続きに堀切などの防御施設を設けておらず、城に伴うものか判断できなかった。
また、2本ある堀切は明瞭であったが、堀切間は削平が甘く曲輪としては不十分である。さらに堀切間の東側斜面には、北側の堀切端から連続する竪堀状の痕跡があるが、これも城の遺構としては疑問がある。このように城としてはやや不十分な点がある。
しかし、この尾根先端は和田集落の東側を区画する自然の隔壁となっている。さらに尾根の先端は、
和田城下町の南側を区画する牧山川と接している。このような立地からみて、蛇山山頂の岩尾城中心部を防御するためのものでなく、城下町の端を防御するための出城としての可能性が考えられるであろう。
これは、春日町の
黒井城にある的場砦と性格的に共通すると考えられる。城郭遺構による城下町の区画・取り込みを示すものといえるかもしれない。このように考えることが可能であるならば、城下町の成立と対応して位置付けるべき遺構であろう。
和田氏以前の岩尾城城下町は、和田地区に集約化されず核となる町家が多元的に存在した可能性が高い。ただ、和田地区はこのように出丸により城との一体化を進めていた。また、南東尾根の出丸は、織豊期の城下町再編後も城下町域の東側区画として総構的な性格で機能し続けた可能性も考えられよう。
情報提供:丹波市教育委員会文化財課