山名氏城館(やまなしじょうかん)

山名氏城館 投稿者:カーネルさん

城郭基本情報

名称(よみ) 山名氏城館(やまなしじょうかん)
通称・別名 山名氏城館[此隅山城・有子山城]
所在地 兵庫県豊岡市出石町宮内他(地図は此隅山城を示す)
天気情報

03/07(金) 降水確率:40%
7℃[+1]3℃[-1] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 但馬國出石観光協会[電話
分類・構造 城館遺跡群
築城主 山名時義[此隅山城]、山名祐豊[有子山城]
築城年 文中元年(1372)[此隅山城]、天正2年(1574)[有子山城]
主な城主 山名氏[すべて]、前野氏、小出氏[有子山城]
廃城年 永禄12年(1569)[此隅山城]、慶長9年(1604)[有子山城]
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)[すべて]、竪堀、土橋[有子山城]
指定文化財 国史跡(山名氏城跡)
再建建造物 碑[すべて]、説明板[すべて]
山名氏城館は、室町時代には「六分一殿」と呼ばれるまでの勢力を持った、但馬国の山名氏に関する城館群である。

此隅山城跡、有子山城跡が、「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている。

此隅山城 

此隅山城(このすみやまじょう)は、兵庫県豊岡市の出石にある日本の城(山城)跡。別名は子盗城、此隅城。

歴史

室町時代

応安5年(1372年)頃、出石神社の北にある標高140mの此隅山に山名時義が築城。以後山名氏の持城となる。

応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には山名の各領国から計2万6,000騎の軍勢が集まり、山名持豊(宗全)は当城から京都へ出陣した。

但馬の守護所は平野部の九日市にあったが、守護代の垣屋氏におされた守護の山名氏は直割領で守りの堅い此隅山の城に拠点を移し、山麓に館を設け守護所を移した。

戦国時代

山名祐豊は、垣屋氏・太田垣氏・八木氏らを制し此隅山城を戦国大名山名氏の居城として確立させたが、永禄12年(1569年)、織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、より急峻な有子山城に居城を移し、城は廃城となった。

歴代城主

・山名時義:父時氏と共に南朝から帰参した。
・山名時熙:時義の子。足利義満から討伐を受けたが、復権した。
・山名持豊(山名宗全):時熙の三男。応仁の乱の西軍の首領。
・山名教豊:宗全の嫡男。
・山名政豊:教豊の子。
・山名致豊:政豊の次男。
・山名誠豊:致豊の弟。
・山名祐豊:致豊の次男。

有子山城 

有子山城(ありこやまじょう)は、兵庫県豊岡市出石(但馬国)にある日本の城(山城)跡。

歴史

但馬守護所

天正2年(1574年)、山名祐豊が築城したとされる。一時、六分一殿として知られた山名氏は元来此隅山城を居城としていたが、永禄12年(1569年)、織田信長配下の羽柴秀吉の攻撃を受け落城したため、有子山に城が築かれた。 落城した此隅山が「子盗み」を連想させることから、別の名前であったこの城を「有り子」と名付けられたと言われる。山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近は天守(詰の城)とされ、山麓に平常時住まいする居館および郭(但馬守護所)が設けられた。 しかし、天正8年(1580年)、山名堯熙の時、再び羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城した。

織豊時代

以後、羽柴長秀、青木秀以、前野長康、小出吉政が城主となる。 関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓の館および郭のみを出石城として建築し、山頂部分の有子山城を廃城にしたと幕府に届け出た。

現代

2017年(平成29年)4月6日、出石城とともに続日本100名城(162番)に選定された。

歴代城主

・山名祐豊
・山名堯熙
・前野長康
・小出吉政

参考文献

・今井林太郎(監修)編 『兵庫県の地名』 平凡社〈日本歴史地名大系 第二九巻Ⅰ〉、1999年10月20日。ISBN 4582490603。

本解説文(基本情報を除く)は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「此隅山城」等を素材として二次利用しています。

城郭口コミ


2025/01/05 02:49ʀᴇᴅ副将軍
鯵山城:有子山城の東を守備する出城🏯⁡オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎⁡築城年代や築城主等の詳細不詳。有子山城の東尾根沿いにあることから、有子山城が築かれた1574年頃に有子山の東を守る出城として築かれたと考えられています。⁡見所有子山城から東へ1.5kmの尾根伝いにあり、鯵山峠を見下ろす位置に築かれています。山頂部から南尾根は大堀切で遮断されていますが、鯵山峠は県道となっており城域北側は削られてしまっている様です。東側に竪堀状地形が認められますが自然地形か判断が分かれます。

2024/11/28 07:13ʀᴇᴅ副将軍
此隅山城:11国を支配した山名氏の但馬支配の拠点🏯⁡オススメ度 ★★★★⭐︎⁡築城年代は不詳。文中年間(1372年〜1374年)に山名時義により築かれたと云われます。山名氏は、清和源氏の庶流で新田義重の庶子である新田義範が上野国多胡郡山名を与えられ、山名三郎を称したことが始まりとされます。元弘・建武の争乱において、山名政氏と嫡男の山名時氏は新田義貞に従い倒幕の功労者として大きく勢力を拡大していきます。この頃に此隅山城は山名時義により築かれたと考えられています。全盛期には全国66か国のうち11か国で山名氏が守護職となり六分一殿と呼ばれるほど勢力を拡大。1467年の応仁の乱においては、山名宗全は西軍の総大将...

城郭攻略情報


2024/03/04 16:18
大竹
山陰本線国府と豊岡の間、円山川と出石川に分かれる辺りで攻略
2023/12/01 11:17
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2023/12/01 11:05
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2023/06/04 07:44
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公共交通:一例豊岡駅〜全但バス出石豊岡線で終点出石に行き登城。(❜18・6攻略)

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 左衛門佐悠未さん 27

 2位 ポチ但馬守さん 16

 3位 たぬきち但馬守さん 7

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