若江城(わかえじょう)は、河内国若江郡(大阪府東大阪市若江南町)にあった日本の城(平城)。南北朝時代(1382年)から安土桃山時代(1583年)の約200年間にわたって存在した。畠山氏の河内経営の拠点で、河内国の経営を担当した守護代遊佐氏が歴代城主となった。
城名の由来
若江という名称の由来は、河内国若江郡に由来する。若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。このことから、大般若経の「若」と清水の源という意味の「江」をとり、若江郡と称せられたという。また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが「若江」という名であったともいう。
築城
1382年に河内守護となった畠山基国の命で築城された。当初は、守護所としての政治機能のみの城であったが時は南北朝の戦乱の時代であり、河内南部には南朝の勢力が及んでいた。また、基国が河内守護となった理由が、南朝から北朝に帰順していた楠木正儀が1379年の康暦の政変により支援者の細川頼之が失脚したことから再び南朝に帰参したことからそれに備えるためであった。さらに、楠木正儀と失脚し四国の領地に戻った細川頼之が連絡をとって反幕府の軍事行動を掣肘するためでもあった。そのため、基国は実力派の重臣遊佐長護を築城の責任者に任命し、守護所設置に続いて防衛施設としての城郭を計画させた。
基国は長護と共に守護所を定める時点で河内に下向し、防衛に適してなお河内の政治を統括して周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。
若江の地は西方1.5kmほどに大和川本流(旧大和川、現在の長瀬川)があり、東方1.5kmほどに大和川支流玉串川があり、2つの大河を東西の天然の外堀として、玉串川が若江の北東で吉田川と菱江川に分かれ、そのうちの菱江川が分かれた後、西向きに流れを変え、新開池を経由して大和川本流と合流しており、この菱江川が北方の天然の外堀となっていた。
また、大和川本流と支流である玉串川との中間には両大河ほどではないが、楠根川(現在は第二寝屋川に移設され、若干流れが異なっており、跡地は公園などになっている)があり、楠根川が内堀へ水を供給し、若江城内への水運の便を提供していて、それらの河川の整備と街道の整備が築城と並行して行われた。この時に整備された街道が後の、河内街道、十三街道(俊徳道)である。それらの街道は若江城の城下町で交差するように設計され、この街道の交差部を中心に若江城の城下町は計画された。
全体計画は長護が担当し、城郭などの現場指揮は長護の子息とされる遊佐国長が執った。河川の整備および治水対策などは畠山氏譜代の斎藤基則、斎藤利宗(次郎左衛門尉利宗か)、門真小三郎(国康か)、在地の河内国人の萱振氏(名称不詳)などが担当した。また、城下町の整備や街道の整備は畠山氏譜代の遊佐五郎(家国か)、稲生平左(平左衛門尉基宗か)、稲沢小四郎(貞行か)、吹田孫太郎(国道か)、三宅四郎(家村か)らなどが担当した。
また、増援として遊佐基光、神保肥前守、誉田氏、槇嶋氏などが派遣されたが、時期や担当は不詳。1385年ごろには一応完成をみたが、その後も改修を加えた記録もあり、城下町の繁栄や水害などの理由で大きな改修が数度にわたって行われた。
歴史
年 |
月日 |
事柄 |
1382年 |
畠山基国、若江城の築城開始。 |
1385年 |
一応の完成。 |
1398年 |
畠山基国、管領就任。 |
1406年 |
畠山基国薨去。長男畠山満家は3代将軍足利義満の嫌忌のため、次男の畠山満慶が家督継承。 |
1408年 |
将軍足利義満薨去。畠山満慶は当主の座を兄満家に譲る。満家は弟に能登を与え、河内などの守護となる。 |
1410年 |
畠山満家、管領就任。 |
1412年 |
畠山満家、管領退任。 |
1421年 |
畠山満家、管領に再就任。 |
1429年 |
畠山満家、管領退任。 |
1433年 |
畠山満家薨去。 |
1457年 |
河内土一揆、若江城付近にも騒擾が及ぶ。 |
1460年 |
2月 |
畿内に大地震。若江城に被害があったと伝う。 |
1460年 |
大雨で洪水が起こり、若江城にも洪水の被害があった。 |
1460年 |
10月 |
大和の筒井順永が若江城の畠山義就を攻め、義就は嶽山城に撤退。 |
1461年 |
2月 |
河内で馬借が蜂起し、若江城下で騒擾。 |
1462年 |
4月 |
畠山政長、細川成之と共に畠山義就を攻める為に出陣、若江城に立ち寄る。 |
1464年 |
正月 |
畠山政長、若江城で河内国人たちの年賀を受ける。 |
1465年 |
夏 |
大暴風雨があり、河川が氾濫。若江城も水害を受ける。 |
1467年 |
1月18日 |
畠山政長と畠山義就が上御霊神社で戦い(御霊合戦)、応仁の乱が始まる。 |
1471年 |
7月 |
筒井順永が若江城を攻略。 |
1473年 |
12月19日 |
畠山政長、管領就任。 |
1475年 |
8月 |
台風が畿内を直撃。大和川などが氾濫。若江城に甚大な被害。 |
1475年 |
12月 |
蓮如が若江城下で布教。 |
1477年 |
10月9日 |
畠山政長の配下の遊佐長直が守る若江城が畠山義就の攻撃を受けて落城(若江城の戦い)。畠山義就が入城。 |
1477年 |
12月25日 |
畠山政長が管領就任。 |
1483年 |
8月22日 |
河内十七箇所の戦いで畠山義就が畠山政長を水攻めにした。そのため、若江城近隣も水害がおよぶ。この戦いと犬田城の戦いの結果、義就が河内の支配権を確固たるものにした。 |
1485年 |
8月 |
河内に土一揆が起こり、若江城か近隣でも騒擾。 |
1486年 |
8月1日 |
畠山政長が管領就任。 |
1490年 |
12月12日 |
河内で畠山義就が薨去。若江城または高屋城で薨去か。 |
1492年 |
5月 |
河内で国一揆がおこり、若江城周辺の国人なども参加し、若江城の守備が強化された。 |
1493年 |
閏4月25日 |
明応の政変。畠山政長、河内正覚寺で自害。 |
1497年 |
冬 |
畠山政長の遺児畠山尚順が紀伊から和泉を経て、河内高屋城を攻めて畠山義就の子基家(義豊)を駆逐し、勢いに乗って大和でも勝利し若江城を奪還。 |
1499年 |
1月 |
畠山尚順、若江城より出陣し河内十七箇所で畠山基家を撃破、自害させる。 |
1499年 |
9月 |
畠山尚順、若江城より出陣し摂津に侵攻。 |
1499年 |
10月 |
河内で土一揆。畠山尚順方の守護代遊佐氏が鎮圧に失敗。 |
1499年 |
12月20日 |
畠山尚順、摂津天王寺で細川政元に敗れ紀伊に敗走。若江城孤立。 |
1500年 |
9月 |
畠山尚順、紀伊より和泉へ侵攻し岸和田城を攻略、和泉半国守護細川元有を撃つ。続いて、河内誉田城で畠山基家の遺児義英を攻めるが、細川政元が派遣した赤沢朝経・薬師寺国経らの援軍に敗れ紀伊へ撤退し、若江城の奪回に失敗。 |
1504年 |
畠山尚順と畠山義英が和睦。高屋城に尚順、誉田城に義英が入城。若江城は史料に見えず。遊佐順盛が城主ともいわれる。 |
1506年 |
両畠山氏の高屋城、誉田城が赤沢朝経の攻撃を受け落城。 |
1507年 |
12月 |
畠山尚順、畠山義英の和睦が破綻。河内嶽山城で合戦。 |
(この間の状況は不明) |
1537年 |
若江城主であった若江兼俊に謀反ありとして六角義賢は高野山へ追放し、その跡に堀江時秀を入れて守らせた。 |
1546年 |
若江城主の河内守護代遊佐長教が若江城より出陣、堺で三好実休の軍を撃破。 |
1548年 |
遊佐長教と高屋城主の河内守護畠山政国の連合軍が三好長慶と戦い、和睦。 |
1549年 |
遊佐長教出陣。三好長慶と連合して細川晴元派の三好政長を摂津江口で撃破(江口の戦い)、細川政権崩壊。 |
1551年 |
5月5日 |
遊佐長教が暗殺される。 |
1560年 |
7月3日 |
畠山高政方の守る若江城が三好長慶方の猛攻で陥落。畠山方の救援軍も若江城の南方で撃破される。 |
1569年 |
1月4日 |
堺に三好三人衆の軍勢が上陸し、京へ向って進撃を開始したため、反三好三人衆の若江城主三好義継が若江城より出陣。 |
1569年 |
1月6日 |
若江城に若江城主の三好義継が討ち死にとの誤報があり、混乱する。 |
1570年 |
6月19日 |
摂津池田氏の内紛があり、池田勝正が追放され、若江城に入城する。 |
1571年 |
9月22日 |
若江城で松永久秀の家臣、竹内秀勝が死亡。 |
1573年 |
7月20日 |
15代将軍足利義昭が京を追放され、羽柴秀吉の警固を受けて三好義継の若江城に入城する。 |
1573年 |
11月5日 |
足利義昭が和泉堺に移るため、若江城を発つ。 |
1573年 |
11月10日 |
織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、佐久間信盛軍が三好義継を若江城に攻める(若江城の戦い)。 |
1573年 |
11月16日 |
若江三人衆の多羅尾右近、池田教正、野間長前らが謀反し、佐久間信盛らを導きいれ、若江城は落城。追い詰められた三好義継は自刃して果てた。その後、若江城は教正を筆頭として若江三人衆が支配した。 |
1574年 |
9月8日 |
河内門徒に攻略されていた若江城を織田軍が攻撃し、陥落する。 |
1576年 |
5月6日 |
大坂での苦戦の報告を受けた織田信長が5日に京都を発ち、若江城に入城する。翌日、天王寺砦に入る。 |
1577年 |
2月16日 |
雑賀攻めのため織田信長が京都を発ち、この日、若江城に入城する。 |
1581年 |
閏3月5日 |
織田信長と本願寺が和睦し、織田方の前線であった若江城も厳戒態勢を解く。 |
1583年 |
破却。 |
キリシタン
義継の死後、若江城主となった池田教正は熱心なキリシタンであり、シメアンという洗礼名を持つほどであった。教正は若江城下に司祭館が附属した教会を設置するなど若江城下にはキリシタンが多くいたことがルイス・フロイスの『日本史』に記されている。しかし、その後、若江などの河内のキリシタンの支援者であったサンチョの洗礼名をもつ三箇頼照が本能寺の変後に明智光秀に味方したことから没落し、教正も豊臣秀次が処断されると改易され没落した。また、若江城自体が豊臣秀吉の大坂城築城に伴い城が破却されるなどしたために衰退したことから、キリシタンも衰退した。
水害
築城の項でも述べたが、大河に挟まれたデルタ地帯にある城であり、後に大和川が付け替えられたことでもわかるように水害が多く、その対策として川浚いや堤防の増築などが繰り返し行われた。しかし、発掘調査でもあるように、水害によって城下町が押し流されたこともあった。
廃城
1581年閏3月5日 に織田信長と顕如との和議が成立したため、織田方の前線拠点のひとつであった若江城は近隣の八尾城に統合されて、廃城となったとされるが、1583年に始まった大坂城の築城の際の記録に若江城を破却し、その石垣および一部の残存建築物を移したとあることから、この頃に廃城になったとも考えられている。
構造
本丸などの主要部は東西が約130m、南北が約150mの20,000㎡ほど。
発掘調査
若江城跡は、1972年から発掘調査が行なわれている。判明している部分では若江公民分館を中心としていたこと。周辺から二重の堀。土塁跡や櫓などの建物の遺構、井戸跡が発掘され、漆黒の瓦などが出土しており若江城の建物が瓦葺であったことも判明している。また、土器類・武器類などが多数出土している。
所在
アクセス
- 最寄り駅 - 若江岩田駅(近鉄奈良線)
- 最寄りバス停留所 - 近鉄バス若江停留所